天国と地獄のパラドックス

NHKスペシャルでやっている『2030年未来への分岐点』というシリーズが、毎回すごく考えさせられる内容だ。今日の話は、「“神の領域”への挑戦〜ゲノムテクノロジーの光と影〜」という内容だった。

今世界で、ゲノム編集の研究が一気に進んでいて、すでにデザイナーズベイビーなども技術的に実現している。何となく、そういう問題があるのは知っていたが、どういった部分に課題があるのかよく分かっていなかったので、分かりやすくまとめられていたこの番組を見れて有難かった。この番組を観てはじめて、ゲノムテクノロジーに関する倫理的課題がどれ程大変なものか知った。

「命の尊厳」ということが分からなくなる時代が来ようとしているのだと感じた。今まだ、かろうじて私たちは「命は大事」「誰の命も尊いものだ」という感覚を共有しているように思う。しかし、ゲノム編集技術の行きついた未来には、私たちはもう「命が大事」という感覚が分からなくなると感じた。少なくとも、今我々が持っているような「命への感覚」は失われていくように思った。

ゲノム編集というのは、私たちのDNAの中の情報を操作する技術だ。この技術を応用すれば、病気を治療したり、知能や運動能力等を高めたりすることができる。

しかし、この技術には倫理的に解決されていない問題が多い。例えば、もし生まれてくる子供のゲノムを編集できるようになれば、皆が優れた遺伝情報を欲しがる。その結果、持っている遺伝子情報によって格差が出来てしまうというのだ。ゲノム操作できるのは、裕福な人のみである。そうすると、ゲノム操作できない人は差別されていくようになるというのだ。ゲノム編集技術の進歩は、優生思想を強化することになるだろう。能力主義が、さらに加速してしまう。

さらに恐ろしいと思ったのは、今ある国で、サルと人間のキメラをつくる技術が開発されている。(今私は「つくる」と言ったが、この「つくる」という言葉を使うという事は、命を「つくってもいい」という感覚をすでに私も持っているということになるだろう。)キメラと言うのは、サルと人間の遺伝子が混在する動物だ。この場面が今回の番組で一番ショックだった。倫理的に問題があると指摘されているのに、その教授は胸を張って「この研究は人類のためになるのです」と主張していた。では、なぜこのような研究が行われているのか、なんと、キメラの動物の体内で人間の臓器を作るそうだ。つまり、そのキメラの動物は、人に臓器を移植するためだけに生まれさせられるのだ。本当に寒気がした。カズオ・イシグロの『私を離さないで』という小説は、臓器提供のために育てられた子供達の運命を描いた近未来SF小説だが、その小説と同じことが今現実に起きようとしている。

私は、その生まれさせられた「サルと人間のキメラの子」の気持ちを考えた。サルと人間のあいの子であれば知能もかなりあるはずだ…。もしかしたらアイデンティティも持つかもしれない。その「キメラ」は私たち人間に限りなく近いはずである。彼に、人権はないのか、生きる権利はないのか…。私たちは勝手に彼を産み、臓器を取り出し、殺す権利があるのだろうか…。

そう考えると、このことは、私が普段深く考えていない事…。他の生き物の命を物と同じように扱ってしまっているということにも大きな問題性があるのではないかということを突き付けてくる。私たちはすでに、動物を工業的に生み出し、彼等の命を奪って生きている。それをどう考えたらいいのか。考えなくてもいいのか。感謝していればいいのか…。我々の欲望を突き詰めた先にあるのがこのキメラの問題なのだと思う。

実は、ゲノムテクノロジーに関して倫理的に考えなければならない事は山のようにあるのだ。しかし、今科学の世界はどうなっているかというと、「倫理の問題は後回しにして、とりあえず技術だけは使えるように進歩させている」というのだ。

ここにも暗い現実があるように思った。科学と倫理と分けて研究するということがあっていいのだろうか?「幸せの部分は倫理で考えてね、科学の部分は俺らがどんどん進めるから」という感じなのだ。番組内では、倫理的な問題を突っ込まれたゲノム編集の研究者である教授が取材班に「これ以上聞くな!」と怒鳴るシーンがあった。そのことにも辛くなった。倫理のことも一緒に考えて研究して欲しいと思った。

ゲノム編集技術を使えば、不治の病とされてきた病気も治ったり、寿命もぐんと伸びたりすることが可能らしい。しかし、その事を聞いて私は「これは地獄じゃないか…」と思った。どれだけ寿命が延びても、病気にならなくても、能力的に高い人間に成ったとしても、人間はそれで幸せになるのか…。ならないのではないか…。

ゲノム編集技術の発展の先に、私たちは長寿や、健康を手に入れるのかもしれない…。しかし、肝心の「何のために生まれ、何のために生きるのか」という問題は残り続ける…。そんなに生きて何をするのか…。それだけが分からないまま、私たちは無暗に寿命を延ばしていく。意味が欠けているのに…。そこに怖ろしいものを感じた。ここで言う意味というのは、夢を持つとか、自己実現などとは次元の違う話である。そういうものでは、私達は本当に自分の人生を満たせないのではないか?(そういうことも大事なのだが、存在の意味そのものにはなり得ない。)人間には、そもそも生まれてきた意味が欠けているのだ。その欠けたものを一個も解決できないままに、寿命だけが機械のように伸びていく…。まさにディストピアではないか。そのような生にどんな意味があるのだろうか?

私が言うのは、なにも「何のために生まれ、何のために生きるのか」分らなければ幸せになれないということではない。生を享受しているという中に、このかけがえのない一日一日をかみしめたり、思い通りにならない出会いの中にこそ、大切なものがあり、実はそれ以上の幸せがどこかにあるわけではないのではないかということだ。その毎日の有難みや、思い通りにならない生をそれでも生きていく事の中にあるかけがえのない喜びが分からなくなってしまうことがディストピアだと感じるのだ。

番組の後半で宗教学者の島薗進さんが出てきて「命は授かるものであった。それは結婚したとしても、子供が出来るかどうかわからないからだ。だから命は授かるものだった。」ところが「命が作れるものになってしまう。」命は思い通りにならない、授かるものだという感覚が失われていくというのだ。そして島薗先生は「作れるものになると、壊しても良いものになってしまいます」と言っていた。その通りだと思った。作れるものは壊してもいいと私たちは思ってしまう。つまり、命の価値、生きる価値が分からなくなってしまうのだ。

もし、私達が倫理の問題を真剣に考えることなく、ゲノム編集技術の進歩が暴走すれば、必ず誰かそれを使う人が現れるだろう。その時人間はどうなるのか?私たちの命への感覚はどうなるのか?

今日の番組で見たことは、全部仏教の人生観と逆のことをしてしまっていると感じた。つまり、仏教は、人生は思い通りにならないということを観ていく。思い通りにならないという道理を受け止めることのできる人に成る道を教えていると言ってもいいと思う。

思い通りになって助かるのではなく、思い通りにならないこともそのまま受け止めていくような教えだろう。それは、誰の人生も、どのような命も尊敬し、尊重する態度につながる。命を大切に扱うことにつながるはずだ。なぜなら、命は思い通りにならず、本当に多くのご縁の中で頂いたものだと自覚する態度が育てられるからだ。

しかし、ゲノム編集技術が目指すのは、徹底的に私たちの「思い通りにしたい」というモノサシの延長である。仏教とは方向性が逆で、思い通りにならない事を、無理矢理思い通りにして幸せになろうという道だ。しかし、ここには終わりがない…。無限の延長があるだけだ。いつまで経ってもこれで満足ということがない…。だから逆に苦しいのだ。

先日聞いていたラジオ(アシタノカレッジ2021年6月4日)の中で作家の平野啓一郎さんが、こう言っていた「これからの時代は相当強く生を肯定するような思想を書いていかないといけないと思っている」と。これからはますます私たちは生を肯定するのが難しい時代に入っていくと平野氏は言うのだ。その中で、生きることを強く肯定する思想を紡いでいかないと、本当に大変になるという危機感を述べていた。

正直僕はドキッとした。というのは、私は仏教徒でありながら、仏教を自分一個の幸せの道具としてしか考えていなかったと気づかされたのだ。

平野氏の言うように、「生を肯定する思想」が必要だ。

仏教はそういう思想になりうると思うのだ。そういう視点で改めて仏教を学び直し、仏教思想、親鸞思想が私たちの生を肯定しうるものか確かめていきたいと思った。

誰かの生を、ひいては自分の生を肯定しうる教え。そういう視点で仏教を学びたいとはじめて思わされた。

その一つの基点として島薗進先生が言ったように「授かった命」「賜った命」ということがあるように思う。すでに我々は多くの親が障害のある子供が生まれ、そのことですごく悩むんだけど、実はその子を通して多くの喜びを享受している姿を見ている。それは決してやせ我慢などではない。実はその辺りに私たちの幸せの根本があるように思うのだ。もっと簡潔に言うと、「死ぬときは死ぬ!」ということができなくなる。なんて言ったらいいか分からないけど、死ぬときは死ぬ…という当たり前の事の噛みしめが人間の幸せだったりすると思うんですよ。でも、無限遠に命を伸ばし、何でも思い通りになる世界になると「死ぬときは死ぬ」「病むときは病む」が出来なくなると思う。それが何だか不幸だと思う。


命を無限に伸ばし、思い通りの生を創りたいという欲望の強化が、皮肉にも私たちの幸せを無限遠に引き離してしまうように思う。


(終)





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