映画『暴力をめぐる対話』を観た
今日映画館で、現在公開中のドキュメンタリー映画『暴力をめぐる対話』(ダヴィッド・デュフレーヌ監督作品)を観た。
この作品はのイントロダクションをHPから引用する。
黄色いベスト運動では、警察による市民への弾圧により、多くの死傷者が出た。その運動の映像を検証しながら、様々な人々が暴力について対話していくというすごくシンプルなドキュメンタリーだ。映画のほとんどが誰かのモノローグ、あるいはダイアローグで出来ている。
この作品の面白い所は、その作品に出てくるだれもに、肩書をつけない所だ。一体この話している人がどういう肩書を持っているのかが分からない。だからこそ、観ている方はその人が何をいおうとしているのかを聞くし、内容からこの人はどういう立場の人か予想することになる。
ここから分かるのは、私たちは誰かの話を聞く時に、ほとんど肩書によって何を言うか決めてしまっているし、肩書によってこの人の話など聞かなくていいと思ってしまっているということだ。ここがこの映画の特に面白い所だと思う。ワイドショー的な番組、報道番組が増えているがその中では単に肩書があれこれ言っているだけなのではないか?そして私たちもそれに慣れてしまっているのではないか。この映画は、そうした公共のテレビのうさん臭さも告発しているように思う。本当に対話が大事なのだとどこまでも呼び掛けてくるような作品だ。
この作品は、マックス・ウェーバーの言葉「「国家はその利益のために、正当な物理的暴力行使の独占を要求する」を中心に話が始まる。
国家が求めているのは暴力の独占なのだ。国家は自分達だけが暴力を使いたいと考えている。その事がありありと分かる映像だった。
この映画を観て思った感想を以下に箇条がきで書いていきたいと思う。
人間は基本的に暴力が好きであるということ。暴力を使っていくうちにどちらも酔いしれてしまう。暴力がエスカレートしていく。これは悲しいが何というか人間の本能に組み込まれているのだろう。しかし、だからその本能を開放していいという話ではない、その本能を制御しなければならないのだ。
全体の奉仕者である公務員が、国家と言う権力の化身と言う言い方がされていて、恐ろしいが確かにそうなのだと思った。そして、生身の人間が化身になるわけだから、その使命にいとも簡単に酔ってしまうということもある。いつの間にか自分が国家の代表者になってしまう。
フランス人の多くがデモに参加している。これは日本では見られない光景であるし、少なくともそのデモに参加している人は政治や世界に対して様々な知識を持ち議論している。自分の意見をもっている。そのこと自体が日本では当たり前ではない。ほとんどの人は(自分も含め)政治や政治思想史に就て詳しくない。さらに「暴力とは何か?」などという本質的なことを考えたことがないし、考える素地自体ができていない。ある意味で、非常に残念なことだが、考えないのが当たり前の国で育って、議論する習慣がないから、議論する力がないのだと思う。それは自分自身がそうだからだ。これはとても危ない事だと思った。この映画が言っている事は何よりも議論する事だる。「暴力」ということには、議論の余地がある。議論の余地があることを議論しないということが問題なのだ。
こんな浅い、感想しか出てこなかったのだが、この作品はぜひ多くの日本人に見て欲しい。こういう作品が日本で生まれることはまず考えられない。そのことがなぜなのか考えてみたい。
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