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対話とは同質性の確認ではない

#日記 #忘備録

6年ぶりに、仏教の大学での学びを勉強を再開した。
4月からほぼ友人ができず、孤独に過ごしていたのだが、
昨日初めて、ゼミの先輩が飲みに誘って下さり、お話をした。

それは楽しかったのだが、久しぶりに仏教の大学に戻ってくると
その場にのみある空気とか、独特な文化を思い出す。やっぱり良いなと思うものもあれば、これは嫌だなと感じていたものも思い出す。

良いなと思うことで言えば、みんな仏教を専門に学んでいるので、話が仏教の事になると真剣に議論し合い、ある意味で知識の戦いのようになり、私は全くそこには入っていけないのだけれども、絶対的に大事な物はここでは仏教や、教義であるという雰囲気があって良い。

そして、嫌だなぁと思う文化があったことを思い出した。これは別に仏教の大学、お寺の世界に限らないのかもしれないのだけれども、まず初めて会う人に対して、〇〇先生を知っているか?○○研究所の人知ってる?とか、
どこの仏教の学校にこれまで通ってきたのか?とか…何か共通の話題を振れば必ずお互いが通じ合うような文化があって、ある意味でその人がどういうつながりを持っている人で、どんな学校を出てきてということで、互いの属性を探り合うのである。
そして、一通り聞いて自分と共通点があれば安心し、どこかでその人を序列化していくのである。

人の噂は人間の話題の中で一番安易であり、楽なものである。

そしてどの人と知り合いということで、相手の同質性を測るような異様な文化が仏教の学校の世界にはあるように思う。
それを自分は凄く嫌だなぁと思っていた。なぜならば、〇〇先生の知り合いでない人はその話題には入れない。そして、無意識のうちに相手を自分と同質かどうか測ろうとしているということがどこかで透けて見えてしまうからではないか。安心できないのである。この人に自分は認められていないのではないか…と。

こんなバカな話はないのだけれど、それくらい自分は自信がないのだと思う。

とにかく、昨日もはじめて話をする人が居て、そういう空気になった。

そして何よりショックだったのが、自分がそういうことが嫌だなぁと昔は思っていたのに、今回は完全に自分がしてしまっていたことである。自分が相手の同質性を測り、同質だと思ったことで安心してしまっていたのである。

それは自然なことなのかもしれない。しかし自分が、そういう安きに流れてしまった事。安易な会話の仕方に流れまくっていた事がショックだったのである。多分自分が過ごしてきたこの6年というのはそういう風に過ごしてきたのだと思った。
しかし、もうこういう相手の同質性を測るということは、いいだろう。
もうそういうコミュニケーションのあり方を卒業したいと思った。

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