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読書日記『人間関係を半分降りる』(鶴見済著)を読んだ。2022年11月23日

人目を気にしすぎていると、「どう思われているか」に圧倒されがちになる。
では、どこからが「気にしすぎ」なのか?それは「主客が逆転した時」だろう。他人の頭の中が主になって、それを基準に自分を動かしはじめたら、もう主客は逆転している。そこから苦しみが始まるのだ。
けれども人の目を気にしすぎるなとは言っても、たくさんの人がたがいを観察しているなら、それはますます難しい。
自分は見学も兼ねて近くの高校の文化祭によく行くのだが、そのたびに「なんと狭いのか」と呆れてしまう。廊下をすれ違う相手とは、肩が触れてしまうほどだ。こんなに人が詰め込まれた場所で長い間過ごすのは、自分の今の生活からは想像を絶する。
社交不安障害は、十代半ばで発症するケースが一番多い。これは学校の視線のせいなのではないかと睨んでいる。
特に自分が高校生の頃は、ビートたけしやタモリといったタレントがラジオで、人を観察して嘲笑するような話ばかりしていて、若者に大きな影響力を持っていた。たけしの番組があった翌日の教室は、皆がたけし気取りで同級生を品評していた。そんなことはしたくないのに、自衛のためにやっていた者もたくさんいただろう。
視線が過密なだけでなく、そこに悪意がこもっている場合は、人はますます「どう思われているか」ばかり気にするようになる。意識しなければ攻撃されてしまうのだから。社交性不安障害は、何かを失敗した体験から始まることがほとんどだ。人に笑われる体験は、その引き金になりやすい。
では、「どう思われるか」を気にしなくなる方法なんてあるだろうか?もちろん、視線が過密な場所に長い期間いないことは重要だ。
特に、悪意のある視線のなかにいつまでもいないことを薦めたい。
代わりに、やさしい視線のある場所に行くべきだ。
社交不安障害を治すためには、緊張を感じる場所にあえて突入して、心を鍛えるやり方もかつては提唱されていたが、やはりそれは苦しい。
それでも不安になる対人場面を避けていたら多分治らない。むしろ避けるほど、不安は他の対象にまで広がるかもしれない。これは医学界の定説でもある。
だからこそやさしい人間関係を見つけて、それに慣れていけばいい。この対策は人目を気にしがち程度の人にも有効だ。もっと重ければ、支援系の集まりや自助グループもある。
とにかく、やさしい、ゆるい人間関係に乗り換えることだ。
これは、この本が目指す方向そのものだ。
何かに服従しながら生きているなら、生きている気持ちよさなんか高が知れている。人の目に服従していてもだ。
自分を殺さず主体的に生きるのは、それだけで生きている感覚が違う。

鶴見済『人間関係を半分降りる』(筑摩書房)pp.22-24

鶴見済さんの『人間関係を半分降りる』という本を読んだ。とてもお勧めだ。その中で、特に心に残った一節を抜き出し、感想を残しておきたい。

人目を気にしすぎると「どう思われているか」に圧倒されてしまう。これはよく分かる話である。そして鶴見は続けてこういう、どこからが気にしすぎかと言えば、主客が逆転したときだという。他人が頭の中の中心になって、それが自分を動かしたらもう主客が逆転していると…。
そして、互いが互いを監視しているような、人が多い場所だと、ますます人目を気にしているのだと鶴見は言う。そして、著者は学校がどれ程狭く、窮屈な場所かを改めて振り返っている。
たしかに、筆者の経験を思い出しても、まさに学校と言うのは、常に他人からどうみられるかが気になる場所だった。私の場合はそうだった、常にどう観られるのかを気にして、観られた自分と言うことを中心にして行動していた。だからその中にあるのは、自分の意志と言うよりも、つねに、他の誰かから見ておかしくない自分の意志だったり、誰かの期待に応えようとする自分の意志を中心にしていた。しかも、それが上手くできたときに楽しかったりした。だからこれは非常にやっかいな問題である。自分が他人に合わせた自分の意志と言う仮面を被っていると例えると、その自分の仮面が完全に本来の自己と癒着してしまい、もはやどこまでが自分の意志で、どこからが他人の目線を気にした自分の意志なのかが分からない。
更にそれを加速したのが、ビートたけしやタモリのような、人の品評・嘲笑をするようなお笑いが若者達に強い影響を持ったことを指摘する。
これは非常に分かる話だ。もちろん、過去から人は誰かの品評や嘲笑をしていたと思う。しかし、それが一つの笑いのテクニック、処世術、しゃべり方として皆に広く共有されるようになったのは、たしかに「お笑い」の影響が大きいのではないか?人を品評することが面白いのだということがテレビを通して皆に共有された。ダウンタウンとかもその系譜だろう。これはとてもわかる。友達どうして話している時、中心的な話題は、「あいつは何点だ」という何か品定めするような目線ではなかったか。この問題は非常に根深いのではないか。そして彼らに影響を受けている世代が次の世代に大きく影響を与えているとも思う。

社会不安障害は、「笑われた経験があること」が原因になりやすいとう。
ここで、鶴見は「では、「どう思われるか」を気にしなくなる方法なんてあるだろうか?」という問いを立てる。そして、次のように述べる。

もちろん、視線が過密な場所に長い期間いないことは重要だ。
特に、悪意のある視線のなかにいつまでもいないことを薦めたい。
代わりに、やさしい視線のある場所に行くべきだ。

鶴見済『人間関係を半分降りる』(筑摩書房)p.23

まずは、視線が過密な場所から離れろと言う。
そして、悪意のある視線の中にいつまでもおらずに、やさしい視線のある場所に行くべきだという。

私個人は、Youtubeに出演する事には非常に恐ろしい気持ちがする。しかし、ラジオには全くそうした心配というか、恐れがない。それはこの視線の問題なのかもしれない。Youtubeでは世界中からの視線が向けられる。それは時に痛いものである。しかし、ラジオは視線が刺さることはない。聞く人は音に集中し、話者が何を言っているのかを聞き取ろうとする。そうでなければラジオからは何も見えてこない。ラジオには視線が無いのである。しかし視線があるYoutubeはそうした恐さがある。(そしてYouTubeを観ている時の視線は品定めの視線であろう。けして優しい視線とは言い難い)

少し話がズレてしまったが、自分が人の目を中心に生きていると思ったら、私たちは過密な視線のある場所から離れ、そしてやさしい視線、緩やかな視線がある場所に移動すべきである。
このことが分かっただけでも、この本を読んだ収穫があった。
(終)


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