日常のはじまり
年末年始が終わり、日常モードが始まる。朝はちゃんと早めに起きて、娘の弁当を作るなど、決まった時間に何かをする繰り返しのルーティン。
年が明けても有酸素運動、つまり走ることは続けて行こうと決意しているので、その走る時間も決まってくる。今朝も走ってきたが、このコース、この距離がおそらくちょうどいい。短すぎると負荷が足りないし、長すぎると疲れてしまって続かない。
正月から大きな事故や事件が続いて気が滅入る。こういう時こそ、自分の問題と自分以外の問題を切り離す思考が役に立つ。無関心というのではない、自分の問題として解決すべきかどうかという線引きだ。例えば他人の家の前の道が汚れている。その掃除を手伝うにしても、まず自分のところを綺麗にしてからやるべきだろう。
いつも川の近くを走っている。行きは大きな川沿いのランニングコース。帰りは支流の川沿いに設置された遊歩道だ。どちらも車が入ってこない道として作られていて、走りやすい。帰りの支流には鳥の家族が住み着いている。真っ白く大きな親鳥が数羽、黒っぽい雛鳥の面倒を見ている。鳥の挙動はそれぞれで、集団で飛び立つタイミングで数羽だけ遅れたりしている。それを見て「鳥にもいろんなのがいるんだな」と思う。
人の悩みは集団の悩みである。お互いの関係や態度、発言、評価、競争意識、相互承認などの部分で不満足があるとそれが悩みになる。さっきの鳥たちにもそういう悩みはあるだろうか?それはわからない。わからないが、集団を外から見る自分の目線は「いろんなのがいるんだな」くらいのものだ。つまり外側の視点で見ると、集団の中でのあれこれというのはすべて「肯定される範囲内の多様性」として捉えられる。もし、人間を外側から見る存在がいたとするなら、そう見るだろう。視座の問題なのだ。
悩む時は問題を拡大し過ぎている。狭い関係や特定個人、果てはいつかの発言に至るまで、部分にフォーカスして俯瞰的に見られないでいる。その点で正月休みのようなまとまった休みというのはいい。フォーカスし過ぎた日常から少しは離れられる。
広く「世界」があるとしたら、次に限定的なシステムや所属といった「社会」があり、さらに特定の「関係」がある。我々が悩み、ストレスとするのはこの「関係」だ。スコープがもっとも狭い。等身大だ。それゆえに比較ができてしまうし、個人として承認を得たくなってしまう。だが世界や社会がそうであるように、関係(他人)というのも基本的にコントロールはできない。できないのだが、相手が自分と同じような個体であるために、我々はそのことを時々忘れてしまう。だから悩む。悩みというのは現実と意志のギャップのことで、コントロールできないものを自分の思うようにしたいと考えることで発生している。
向き合うのは世界でなければならない。