美しい文章は、井戸を隠した砂漠のように
ここ数年、仕事として原稿の添削指導をする機会に恵まれました。
ライター未経験者や、少し経験はあるけれどライティングをきちんと習ったことがないといった人を含めて、さまざまな書き手の原稿を拝見しています。
どの原稿も一期一会。そして、文章にはその人の実力はもちろん、人柄や考え方のクセなどたくさんのことが現れます。たぶん私がそれらを多く読み取ってしまうから、というのもあるのでしょうが、だからこそ、さまざまな人の原稿に触れる時間はとても楽しいものでした。
書き手として読み手として、そして添削の場では導き手として多くのことを感じますし、どんなふうにフィードバックをしたらご本人のためになるのか、真剣に考えます。それは、自分が書いたものではなくても純粋に私自身が文章と格闘する時間でもあり、豊かな実りをもたらしてくれます。
特に感動するのは、いわゆる「粗削りだけれど、きらりと光るものがある」という原稿に出合えたとき。
サン=テグジュペリの『星の王子さま』に、こんな一節があります。
砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているから。
文章も、同じです。
たとえば表面的には細かいミスがあったり、たどたどしいところがあったりしても、「書くのが好き」「書きたい」「伝えたい」という熱量や、「読む人はこれを知りたいだろうから」と読者を思いやる気持ちなど、そういったピュアで魅力的なものが含まれていれば、読んだあとで何か美しいものが胸に残る。「粗削りだけれど、きらりと光るものがある」というのは、まさにそういうことだろうと私は考えています。
「きらりと光るもの」は、文字としてそこに書かかれているわけではありません。それなのに原稿を読むと、目には見えないピュアなものが行間から不思議と伝わってきて、心を動かされてしまう。
少なくとも私は、そういう文章を美しいと感じます。
逆に、表面上の字面がいくら見栄えよく整っていても、「自分をよく見せたい」という意図が先走っているテキストや、建て前を取り繕ってばかりいて欺瞞のにおいを漂わせている文章、「この原稿料ならこんなものですよね」という感じで消化試合のように書かれた原稿には、本当の美しさを感じません。そういう文章を、自分の時間を使って読むのは切ないですし、ましてやお金を払って読もうという気にはなかなかならないでしょう。
職業ライターとして長く仕事を続けていれば、いろいろな出来事が起こります。それによって気持ちが擦り切れてくる部分があったとしても、いい書き手でい続けたければ、忘れてはならないものがあるのも確か。添削の仕事を通じて、それを思い出させていただきました。
どこかに井戸を隠している砂漠のような美しさ。そんなピュアなものを伝えられる文章を私自身も書き続けていきたいと思います。
さらに、砂漠の井戸を見つけ出してくれた読者の心がいくばくか潤って、そこに小さくても何か素敵なものが芽生えたら、こんなにうれしいことはありません。
文章には、そんな奇跡を起こせる力がある。それを信じているから、書くことをやめられないのです。
◇見出しのイラストは、みんなのフォトギャラリーから
airdancegame9_さんの作品を使わせていただきました。
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