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イエス・キリストの御名を通して祈る。いつも一緒にいてくれるから

 以前、仕事で神社に取材に行ったときのこと。その神社の人から、お祈りする際は心の中で神さまに自分の住所や氏名もお伝えするといいと教わった。そして、願いが叶ったらお礼参りをするといい、とも。

 先日、知人がしばしば神社にお参りしているというので、その話をした。知人はすでに他のルートでも同じ話を聞いたことがあり、心の中で住所や氏名をしっかり伝えて祈っているという。もちろん、お礼参りもしているとのこと。
 信仰を持つのはいいものだよねーという話をして、その場は終わった。

 それはそれでいいのだけれど、ふと、クリスチャンの自分をふり返り、「そういえば、ふだんの祈りの中で住所や氏名ってわざわざ神さまにお伝えしないなあ」と気がついた。
「あれ、どうしているんだっけ…」と考えて、お祈りの最後に必ず「この祈りをイエス・キリストの御名(みな)によっておささげします」とか「イエス・キリストの御名を通してお祈りします」とか言っている、と思い当たった。
 自分の名前じゃなくて、イエスさまのお名前を通して(イエス・キリストに仲介してもらって)神さまに届けるシステムだった。
 そうそう、そうだった、と、あらためて納得した。

 キリスト教ではインマヌエル(神は共におられる)だから、イエスさまがいつもそばにいてくれる。聖霊が空気のように満ちているし、父と子と聖霊は三位一体だから、イエスさまや聖霊がすぐそばに存在するなら神さまもそこに存在しているのと同じ。したがって神さまは、私がどこのだれかはいつもご存知だから、お祈りのとき住所や氏名を伝えなくてもいいんだなあ、と思った。
 ちなみに「イエス・キリストの御名を通して」というのは、「私はイエスさまに連なる者=クリスチャンです」という意味だと解釈している。

 そんな感じなので、毎日3度の食前の祈りはもちろん、日常的にいろいろなシーンで、神さまに話しかけるように祈っている。畏怖はあるけど、すごく親しい存在、というイメージ。イエスさまはもっと近くて、目には見えないけれど人の姿でそばにいてくれて、辛いときは一緒に泣いてくれるし、疲れたときは「まあ、ここで休んでいきなさい」と言ってくれる、大好きな人。

 知人との話から、ふとそんなことを考えてしまい、おかげで自分の信仰の根本的なところをすごくシンプルに確認できました。

◇見出しの写真は、みんなのフォトギャラリーから
kuwagatg_bassさんの作品を使わせていただきました。
ありがとうございます。

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