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「祈り」の力に救われる ~誰かのために祈ること。自分のために誰かが祈ってくれるということ

「祈」という漢字を知ったのは、10歳のときだった。
 雑誌のカラーページの見出しに出ていた文字だった。1978年、アニメーション映画『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』の告知ページで、雑誌はたぶん、同年に創刊した『アニメージュ』(徳間書店)だったと思う。

 青い宇宙空間に、金髪の美少女テレサが、両手を組み合わせ、ひざまずいて祈りを捧げるポーズで浮かんでいる。彼女は裸で、光に包まれており、目をつぶっている横顔しか見えないのに、とてもきれいだった。
 そのカラーページの、記憶では左上のほうに、大きく配置されていたのが、「祈り」という文字だった。40年以上前のことなので、曖昧な記憶だけれど(かなり変容している可能性あり)、私のイメージでは明朝系のフォントで、藍色の宇宙を背景に、白抜きでデザインされていた。

 なんて美しい漢字だろう、と思った。しめすへんに斤と書かれた「祈」の形とバランスが、小学生だった私には、なぜか感動的に美しく見えた。松本零士さんの絵が訴えかけてくる、誌面全体のイメージ、あるいは『さらば~』に通底する自己犠牲的な世界観にも、影響されていたかもしれない。
 とにかく、祈りの尊さみたいなものが、胸に響いてきたのだった。
 それは私にとって、「祈り」という言葉そのものを好きになった瞬間でもあった。

 けれども、祈る、ということについて深く考えるようになったのは、それから30年も経ってからだった。
 40代でプロテスタントのキリスト教会を訪ね、はじめてクリスチャンの祈りに触れた。驚いたのは、「この世の中に、こんなにも、他の誰かのために祈る人たちがいるなんて」ということだった。

 私も子どものころは、仕事で遠くに出張に行った母の無事を祈るなど、誰かのために祈るということはあった。でも、大人になってからというもの、天に祈るとしたら自分の願いばかりだった。自分自身の悩みで手いっぱいになっていたのだ。
 対して、キリスト教会に集っている人たちは、毎週の礼拝のなかで、誰かのために祈ってばかりいた。たとえば、災害に遭われた地域の人のため、世界のどこかで苦しんでいる人のため。
 これは新鮮で、衝撃だった。

 信徒のなかには、礼拝以外のコミュニケーションで、私がすこし心配事を話すと、次に会ったときなどに、「あなたのために祈ったからね」と言ってくれる人もいた。
 私のために祈ってくれる人がいるんだ、と、また驚きを覚えた。素直にうれしかった。
 たしかに、祈っているだけでは何も解決しない。祈ってもらうことによって何か具体策が生まれるわけでもない。けれどもその人は、自分が生きている時間の一部分を、私のために祈ることに使ってくれた。それは、その人が自分の命の一部を、その祈りのために費やしてくれたことに等しい。

 そもそも私は、他人が自分を助けてくれるということに、あまり期待を抱いていなかった。みんな、自分のことで手いっぱいだろうし、仮に誰かを助けるとしても、家族とかパートナーとか、優先するべき人がいるはずだ。それで当然だと思っていた。
 それなのに、ちょっと教会で見知っただけの他人のために、プライベートな時間を使って祈ってくれる。とてもありがたいことだと、私は感じた。

 祈りには、力があると思う。
 自分で自分のために祈るときも、そうだ。神さまへ向けて、私を救ってくださいと祈る言葉それ自体が、自分を救う力になる。
 誰かのために祈るときだって、そうなのだ。イエスさまは必ずそばにいて、その祈りを聞いてくださる。だから必ず神さまにも届く。そう信じることで、希望が生まれる。
 誰かのために祈ることは、無ではない。まずは、そう信じて祈る。そういう気持ちから、具体的なアクションや助けが生まれていくということも、きっとあるはずだ。

 聖書には、次のような言葉がある。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、イエス・キリストにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
(テサロニケの信徒への手紙一5:16-18)

 有名な聖句だから、知っている人は多いだろう。
 ここに書かれている神さまの望みは、私には難しすぎて、到底できそうにない。
 とくに、「いつも喜んでいなさい」と「どんなことにも感謝しなさい」は、とてつもなく遠い目標で、自力でかなえるのは無理だと思う。
 なんとかできるかもしれないのは、真ん中の「絶えず祈りなさい」だけ。
 だから、祈る。
 いつも喜んでいられるような、どんなことにも感謝できるような、神さまが望んでおられる人に近付けるよう、力を与えてください、私を変えてください、と祈り続ける。

 祈り続けることは、無ではない。祈りは私にとって、自分の基軸の確認作業であり、前を向いて進んでいくための儀式でもあり、救いを生み出す原動力でもある。それらをひっくるめて、私は「希望」と表現しているけれど。

 クリスチャンとして生きるのは、祈りの力を信じるということでもある。
 洗礼を受けて10年あまりになるけれど、いまでもやはり、そういう生き方は悪くない、と思っている。
 くらしのなかに祈りがあることで、私はずいぶん救われている。


◇見出しの写真は、みんなのフォトギャラリーから、Angie-BXLさんの作品を使わせていただきました。ありがとうございます。

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