「見えないこと」を見つめ直す。〜『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』〜
こんにちは。桜小路いをりです。
小学生の頃、こんな活動がありました。
クラスメイトとペアを組んで、一方がアイマスクやタオルで目隠しをして、もう一方にサポートしてもらいながら廊下を歩いたり、階段を昇り降りしたりする。
そして、サポートする側、される側それぞれの視点を経験して、その中で、「目の見えないひと」への理解を深めよう、というものだった気がします。
どんな子とペアを組んだのか、その活動の後で宿題になった感想文に何を書いたのか、私は、もう覚えていません。
でも、その活動をしていて、「こんなことで、本当に『見えないひと』の気持ちが分かるのかな」と思っていたことは覚えています。
その活動の前か後か、とにかく同じ年に、目の見えない方を学校に招いて点字を打つ体験をしたことも、ぼんやりと記憶に残っています。
確かその授業の最後に、担任の先生がクラスの子の名前を読み上げて、ゲストの目の見えない方が、それを点字で打ってくださりました。
とんとんとん、と凄まじい速さで点字を打っていく姿が印象的で、そのときのことはとても記憶に残っています。
しかし、私は、なんだか妙な違和感を覚えていました。
「見えないひと」への理解を深めるための活動なのに、そんな活動が重なれば重なるほど、「見えないひと」が遠い存在に思えてくる。
本当に、これでいいのかな、と。
同時に、私の母は、街中で白杖を持った方を見かけて、その方が困っているようだったらすぐに声をかける人です。
幼い頃からその姿を見ていた私は、その行動がある意味「当たり前」でもありました。
そんな母のお陰か、当時の私の愛読書はヘレン・ケラーの伝記でした。
もしかしたら、「白い杖を持っている方が困っているようなら、ちゃんと手助けをしなさい」と、こんこんと説く学校の活動の連続に、「知ってます……!」と少し早めの反抗期を発揮していたのかもしれません。
(一方、あの活動で初めて「見えないひと」についての知識を得た子もいたと思うので、活動そのものを否定するわけではありません。)
小学校での活動で感じた、漠然としたモヤモヤ。
その正体が、1冊の本との出会いで、するりと消えていったような気がします。
それが、川内有緖さんの『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』というノンフィクション作品でした。
本書の主人公の白鳥健二さんは、全盲でありながら美術館やアートが好きな写真家さん。
見えないひとと見えるひとが、一緒にアートを見にいくという活動の原型を、(ひょんなことから)作った方でもあります。
その「見方」とは、見えるひとがその作品を見て思ったこと、感じたことを交えつつ、「何が見えるか」「何に見えるか」を話していくというもの。
そこに、「作品を正確に描写すること」は必要とされていません。
これは何だろう、こうじゃないかな、いや、私にはこう見える……。
そんな混沌とした会話を重ねながら、その空間を共有することそのものを楽しむ。そんなアートの楽しみ方が、本書では描かれています。
白鳥さんと共に味わう作品は、ごくごく一般的な絵画から、仏像、体験型のアート作品まで様々。
著者の川内有緖さんと、白鳥さん、そしてお二人のお友達などなど、見えるひとと見えないひとの垣根を取り払って、アートを通して紡がれる交流。それが、時に軽やかに、時に鋭く綴られています。
その空間を、語らいを楽しむこと。
ざっくばらんに、ひとつの作品を見て感じたことをどんどん口に出して、そのどれもに「不正解」はないこと。
何より、白鳥さんの柔らかな人柄が、とても印象的でした。
白鳥さんの言葉を読み進めていくと、「見えない『だけ』なんだな」と思わされます。
もちろん私は、目の見えない方が道で困っていらっしゃるようなら、「私でお役に立てるなら、ぜひお手伝いします」というスタンスでいます。それは、本書を読む前も、今も変わりません。
でも、必ずしも全てのことに手助けが必要なわけではない。
むしろ、目が見えなくてもできることがたくさんある。
そのとき、小学校の活動の中で懐いていたモヤモヤが、するりと解けました。
そうだ。
私は、「目が見えないこと」を強調して、「自分たちと違う」「普通の生活をおくることが難しい」ということにばかりフォーカスされることに、「何か違う」と思っていたんだ。
ふと、そんなふうに思いました。
点字を打つ体験の際、ゲストとして来てくださった目の見えない方を、一度だけご近所でお見かけしたことがありました。
そのときに見た、白杖を持って、迷いなく歩く軽やかな足取り。鮮やかな花柄のワンピースが、ふわふわと揺れている様子。まだ、鮮やかに覚えています。
「普通」の形は人それぞれ違って、自分の「普通」の形と違うから「可哀想」だなんて、それこそ横暴で。
『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』という本は、「見えないこと」を見つめ直すきっかけをくれる、学びに溢れた1冊でした。
今、読めてよかったです。まさか、小学生の頃に懐いていたモヤモヤが、ここへ来て解けるとは思ってもみませんでした。
そういえば、私の読了本の中には、「見えないひと」について書かれた作品がいくつかあります。
もしかしたら、あのときのモヤモヤを解決しようと、自然と興味が向いていたのかもしれません。せっかくなので、2冊だけご紹介させてください。
1冊目は、伊藤亜紗さんの『目の見えない人は世界をどう見ているのか』。
ヨシタケシンスケさんのイラストが印象的な、この作品。ヨシタケさんの『みえるとか、みえないとか』は、この本から生まれたそうです。
私は、「視覚障害」についての入門書として読みました。
著者の伊藤亜紗さんの視点が、どれもきりっと鋭くて、「なるほど!」と思うものばかり。
読む人の視点、世界を広げてくれる1冊です。
そして、もうひとつは、大林利江子さんの『副音声』。
正直に言ってしまうと、ジャケ読みでした。でも、本当に本当にジャケ読みしてよかった小説。
目の見えない人が着けたカメラを通して、見える人が、声で景色や道のガイドをする「副音声」制度。実験的に運営されているその制度の中で出会った、「目が見えない女性」と「未来が見えない男性」の交流を描く作品です。
ちょうど桜がひとつのモチーフになっているので、これからの季節におすすめ。ぜひ色んな人に読んでいただきたいです。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
ちょうど私の推しのSixTONESが、ここ3年「ラジオ・チャリティ・ミュージックソン」のパーソナリティーを務めていることもあり、私自身、「見えないこと」について、もっと考えてみたいと思っています。
私の記事を、素敵な本との出会いのきっかけにしていただけたら嬉しいです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。 私の記事が、皆さんの心にほんのひと欠片でも残っていたら、とても嬉しいです。 皆さんのもとにも、素敵なことがたくさん舞い込んで来ますように。