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幻のキノコを探して~最終章:死にかける(後編)~

Hello my bros & sis 生きてるかい?

今回は私の友人が"キノコを食べて死にかけた話"の後編を代筆していきたいと思います。前回の続きになりますので、まだ読まれていない方はこちらを先にご覧ください。

※体験したことをできるだけ詳しく書いたのでかなり長いです。

※現在の日本ではマジックなマッシュは違法となっております。
この記事は決して薬物を推奨するものではありません。

上記を理解できた方のみ読み進めてください。






初めて会った外国人の魂の仲間


アレシオにバイクの鍵を渡せたことで、ようやく一人になれた安堵感と少し寂しい孤独感とが混ざって、自分でもよく分からない感情になっていた。もはや体はただの肉塊で全く思うようには動かせず、ベッドの上でうつ伏せになることが精一杯だったのだ。

それでも意識は容赦なく奥へ奥へと誘(いざな)われていく。


ここであることが浮かんだ。

今回の旅を語る上で欠かせないアメリカ人の女性、Rinaとの出会いだった。




彼女とは瞑想寺で仲良くなった。日本が大好きらしく純ジャパニーズの私を見て話しかけてくれたのだ。気になったので「Where are you from ??(どこ出身?)」と聞くと、彼女は「I don't know (分からない)」と言っていた。


いや、こっちが"I don't know"である。


実際はイスラエルで生まれ、アメリカで育ち、18歳から一人で8年間も海外を旅し続けている生粋の旅人だった。そういった環境の背景があり彼女は"当たり障りのない会話"を非常に嫌っていた。彼女としては「同じ地球人なんだから出身なんてどこでもいいじゃん」とそんな感じだった。

スターシードという言葉自体が曖昧ではあるが、彼女は私と同じく"今世を最後に解脱する"ことを目標としていることは最初の会話で分かった。「私は家もいらないしパートナーもいらない、でもWeedは必要(笑)」と冗談混じりで本音を言う彼女がとても愛おしかった。


私がお寺を出る最後の3日間、彼女は胸に"SILENT(沈黙)"の名札を付けていた。この名札をつけている人は"会話をしない意思"を無言で周りに伝えることができる。

初めて見つけた日本人ではない魂の仲間に出会えた嬉しさで、私は彼女のことをとにかく深く知りたかった。「なぜそのような考え方になったのか?どのように世界を捉えているのか?」聞きたいことがたくさんあり何度か質問するも無言だったり、ジェスチャーで会話をしようとしてくるのだ。

「(もうあまり話せる時間もないのになぁ…)」と私はそのことを残念に思っていた。




普段の私たちが思考するとき、脳を介してあらゆることを考えることで答えを導き出そうとする。しかしサイケデリックの世界では脳を介さず、意識に直接答えが入り込んでくるような感覚になる。これがいわゆる経験者がよく言う「神になった」とか「全てを悟った」という感覚なんじゃないかと私は思う。

このときRinaのことが脳裏に浮かんだ。

するとその刹那、彼女がなぜ"SILENT"の名札をつけていたのか、彼女がなぜ私の問いに対して無言だったのか、彼女が無言を通して私に何を伝えたかったのか、その全ての答えが一瞬にして意識になだれ込んできた。


そう、彼女は"言葉が必要ないこと"を知っていたのだ。


美しいものを見て美しいと思う気持ち、楽しいことをして楽しいと思う気持ち、小さな幸せを見つけて思う幸せな気持ち、その全てに"言葉は必要でない"ことを彼女は体験を通して私に教えてくれていたのである。


その事実に気づいた瞬間、瞳からすごい速さで涙が溢れてきた。

この地球上のもの全てが繋がっているという安心感と、それに気づけた嬉しさと、彼女の意図を汲めなかった悔しさと、一緒に居たときに分かってあげれなかった申し訳なさで涙が溢れ、息が詰まるような嗚咽をすることでしかその気持ちを吐き出すことができない。


私たちが何かを認識するとき、必ず思考の前に感情が現れる。そしてその感情が体の部位に直接働きかける。つまり嗚咽を止めよう(思考)としても感情が先に涙と結びつき、大絶叫で嗚咽を止めれない自分を受け入れることしかできなかったのだ。




全てのカルマを俺が背負う


キノコを摂取してからどれくらいの時間が経ったのだろうか?

この時の私は時間の感覚など当然なく、ベッドの上で糞尿を垂れ流しているのではないかと錯覚するほど体の感覚は消えていた。というか汚物を体に留めておく機能すらも意識の中では消え失せていた。もちろん呼吸も忘れていたし、体の素粒子全ての振動を1つ1つ止めていくような、そんなところまで来てしまっていたのだ。

止めどない気づきの波が押し寄せ、それを思考で受け止めることができず涙と鼻水で目の前は洪水になっていた。ティッシュで受け止めるも凄まじい水量のため、すぐにビチャビチャになってしまう。その湿ったもので鼻を押さえている最中も意識は何度も飛ばされ、鼻腔が塞がりロクに息ができない。

「新しいティッシュに変えればいいじゃん」とこれを読んでいる方は思うかもしれない。しかしそれすらもできず、ただゼェゼェしながら浅い呼吸をすることしかできなかったのだ。


私はヤバイ状況になればなるほど日本語の独り言が出てしまう。これは恐らく頭では分かっているが、自分を正気に戻すために言霊(ことだま)を使って自分を落ち着かせるという本能からくる行為なのだろうと思う、きっと。


このとき
「この世に生まれ落ちたことは罪なのか?」
という疑問が不意に浮かんだ。


お寺から発った日ということもあり
思想は仏教の影響を色濃く受けていた。


この世が【老いと病と死】で溢れているならば、自分たちで選択して産まれたとはいえど、ある種わたしたちは犠牲者なのではないか?

二元論の世界で誤った道徳観のまま富と権力を手に入れ(富と権力を手に入れたから誤った認識になったのかもしれない)、善良な人間を洗脳し社会的弱者を虐げ蹂躙するような支配者たちが蔓延る(はびこる)世の中。私から見ると世界の片面はそうなっている。

そのような行いをしている支配者たちも
いわば時代の犠牲者なのではないか?

このとき全人類
いや"全生物の悪いカルマ全てを自分の涙に変えよう"と思った。


完全に円環の理のまどかである。


そこから涙と鼻水が止まらなかった。イメージでは木造のバンガローにあるベッドの上で目から血を流していた。それがベッドに染み込み、あまりにも大量だったため床から地面に垂れ落ち、宿のスタッフが心配になって救急車を呼ぼうとしていた。アレシオが「神聖な儀式だから絶命するかどうかの瀬戸際まで待ってほしい」と電話を持つスタッフの手を止めていた。そんな情景が妄想の中では浮かんでいた。

体中の水分がなくなり枯れて死んでしまうのではないかと勘違いするほど涙と鼻水は止めどなく流れた。涙は塩分を含んでいるせいかサラサラしておらず、アトピーの時に出た浸出液のような少し粘り気のある水分だった。そのためアトピーが再発し「また数ヶ月、治療に専念しないといけないのか」とこの時に腹を括ったほどだ。

もちろん実際に血は出ていなかったし、部屋の周りには誰も集まっておらず、完全にヤク中がするただの妄想だった。




言葉は呪文であり呪いであり牢獄である


サイケデリックを語る上でやはり"言葉"について言及しないといけない。


私たちは他者と意思疎通を図るとき無意識で言葉を使う。これは日本語だろうが英語だろうが、どこか遠い国の部族が使う言葉だろうが基本的には言葉を使う。かくいう私がブログで綴っているのも言葉ですし、好きな本を読んでいるときも文字を追いかけている。

この世界にある万物(全てのもの)は
"陰と陽"という二面性を必ず孕んでいる。

つまり何気なく当たり前に使っている言葉にも
便利な点とそうでない点とがある。


人と人とがコミュニケーションを取る上で簡単でなおかつ手っ取り早いのは言葉である。しかし言葉というのは、その物事を言葉にした時点で"それ以外の可能性を消してしまう"ある種、呪いのような牢獄に閉じ込めてしまう行為であるのだ。


例えば「花」という単語に着目してみよう。

私が大切にしていることは「花」を見たときに「美しいな、綺麗だな、儚いな、活き活きしてるな」というような「花」を見たときに感じる感情である。そこでは「花」という単語を知っていようが知らなかろうが全く関係ない。

虫の目線にたってみると「花」は食べ物かもしれないし、体を休めるための宿のようなものかもしれない。それを「これは花だ!」と決めつけてしまう人は知らず知らずのうちに物事を縛っていて、ひいては自分自身を言葉で縛ってしまっているのかもしれない。

もちろんこれは良し悪しの問題ではなくて、事実としてそこに存在していることを私は皆んなに知ってほしいだけなのだ。




母親の子宮に戻りたい


呼吸をすることも当の昔に忘れ、自分が生きているのか死んでいるのかすらも分からない境地も通り過ぎ、それでも深く深く底の見えない深淵に突き進んでいくと、とある"自分の意識"にたどり着いた。


その意識は不安を感じていた。

そして同時に安心できる"母なる源(ソース)"に還りたがっていたのだ。


この"深い部分にあった本当の自分"に気づいたとき、今回の私の生で取り組むべき使命が一瞬にして分かった。

仮に私たちが自身のレベルアップを計るため波動の低いこの地球に転生して、何度も何度もクリア(死)し、何度も何度も新しいデータでプレイ(生)してその輪廻の輪から抜け出せないのならば、その"深い自分の不安"を取り除かない限り、来世でも再来世でも同じ気持ちになってしまうような気がした。

だからこそ"今世で解脱する"
それが唯一の自分を救う方法だと思ったのだ。

なぜ今回インドに行こうとしたが結果的にタイになったのか、なぜ過去3度もインドに足を運んだのか、なぜ神道仏教の思想がある日本人に産まれたのか、このとき全てが繋がってしまった。宇宙は恐ろしいほどに完璧だったことに気づかされた。




Celebrate our lives(生を祝おう) !!


言葉はもっての外、思考ですら三次元の賜物であることを私は初めて気づかされた。私は考えることが好きだったので暇があればよく思考をしていたのだ。

しかし思考を司る"脳"というのは、体の機関であり物質的なものなのだ。

トリップ中はその思考すらも意味をなさない。"Don't think feel(考えるな感じろ)"である。つまり直感が思考よりも優れているとはそういうことなのである。


研ぎ澄まされた意識の中、キノコからのメッセージが届いた。

それを言葉にすると
"Celebrate our lives(生を祝おう)"というような内容だった。


私たちは当たり前かのように呼吸をし、当たり前かのように日常生活を送っている。生きることに慣れてしまった私たちは普段の生活で一つ一つの行いを意識することをほとんどしない(できないと言った方が正しいかもしれない)。

しかし実際はそのどれもが輝かしく奇跡に満ち溢れた行為なのである。

そしてそれを私たちはお互いに祝わないといけないのだ。言葉を使って歌ったり、言葉を文字にして綴ることで祝いを表現することはできるし、言葉なしでも踊ったり、祈ったり、ハグをしたりして祝いを表現することは誰にでもできるのだ。



気づけばヤツを体内に入れてから4時間半が経過しようとしていた。

瞑想をしようとかジョイントを吸おうとか様々な計画を立てていたにも関わらず何もできなかった。そこまで動けなくなるほど飛ばされるとは夢にも思っていなかったが、これが現実で自分の身に起こった疑いようのない体験だった。


シャワーを浴びて共有スペースに放置されていたジョイントを取りにいく。目はパンッパンに腫れていたが、大量に涙を流したことがデトックスとなり、気分は晴れやかで産まれ変わった気持ちだった。

敷地内にいた愛らしいニャンコと戯れながら、まだ残っているシロシビンの感覚を確かめつつ、落ちていく太陽を見つめてジョイントに火を点けたのだった。


今回の体験を通してキノコを5g摂取することは他の人に"絶対"勧めないし、自分自身も同じ量を取ることは二度とないと思う。もしハイドーズをご希望であれば5gぐらいからは必ずシッター(世話をする人)を付けることをオススメする。※もちろんキノコの質による

率直な感想としては"紙"に関してはもう少し潜れるとこまで潜りたいなと思うが、キノコに関しては"これ以上は危険が伴う"と自身で判断した。あとは"呼吸を止めてみる"とか人間を辞めるような領域になってくるので、体を持ちながらできるトリップの天井は知れたのじゃないかなと思う。(1~2gぐらいだったらまた取りたい)


死ぬほど長い記事になってしまい申し訳なす。ここまで読んでくれた方はホンマに感謝です!ありがとう!!今回のタイでのキノコの記事はこれが最後になります。

今回の旅で得たことがたくさんあって、またそれも色々書いていくのでお暇があれば適当に覗きに来てください!とりあえず生きて帰ってこれて良かった!また次回会いましょう、皆んなも元気でね!

以上!あざした!!


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