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【夜を注ぐ⑦[終]】

今までのもの→https://note.com/shimishmidaikon/m/m0311c6be2e90

春の風が草をなで、二人の間を音もなく抜けていく。その冷たさが妙に堪えて、ミサトは体を縮めた。そして満天の星を眺めながら、ぽつぽつと言葉を落とした。

「私お酒って好きじゃないんです。苦いし、喉痛くないですか?」

入社したての私は、周りに促されてレモンサワーを初めて飲んだ。消毒でも飲んでいるかのようなそれは飲めたものではなかったが、頭のモヤがふやけてゆく感覚だけがはっきりと分かった。

「私にとってお酒は麻酔なんです。仕事おわったら酔うまで飲んで、醒めたら虚しいのが分かるから、酔ってるうちに眠るんです」

仕事が辛いんじゃない。世を嘆いているのでもない。

ただ、今までの人生がこのままこの先も続いていくこと、そしてそれが全て無駄なものとして吐き捨てられていくだろうという確固たる予感。

向き合えばこちらが殺されてしまいそうなその憂いに触れるのが怖くて次々に飲み、数々の自分を溺死させていった。そんな日々の中で、酒の味は薄れていき、やがてはほとんどなくなっていた。

酒を美味しいと思ったことなど一度もなかった。
今日までは。

「でも、今日初めてカヤさんに会って、お酒が美味しかったんです。きっとカヤさんと一緒だったから、楽しかったんです。だから、その」

言葉がうまく出ない。酔ったフリができたらどんなに良かっただろう。しかしそんな言い訳ができないほどに指先は冷えていたし、カヤさんは大きな瞳でまっすぐ言葉を受け止めてくれていた。

「カヤさんがいないと、さみしいです」

祈るような想い、と言えば大げさだろうか。しかしこの唇の震えを他にどう説明できただろうか。

不意に柔らかな感触がミサトを包み、やがて低く静かな声が体温とともに染み込んできた。

「私もあなたに会えてうれしい。ここに来てくれて本当に感謝してるわ。」

ありがとう。と言ってカヤはミサトの頬に手を添えた。その手の纏う甘い香りが、ミサトの胸をぎゅうぎゅう締め付ける。

「どうして…」

見上げると、そこにはカヤの微笑みがあった。彼女はいつもの不敵な笑みとは似ても似つかぬ、心底幸せそうに、まるで少女がスノードームを眺めるような表情でミサトを見つめていた。

夜が明ける。

落ち続けていた"夜"は光に透け、空の歪みもいつしか消えてしまった。

「消えた…?」
「元の姿になっただけよ。見えないけれど、ここにいる。」

カヤさんも、同じように消えてしまうのだろうか。元の姿とやらに、なってしまうのだろうか。

薄水色の空はだんだんと鮮やかに色を転じ、今ここで話し心を通わせている女性との別れを告げているようだった。カヤはミサトの頭に手をおいた。ミサトの頬は濡れていた。

「忘れないで。いつでも街が夜におおわれていることを、空高くから落ちてくる美しいモノのことを」

朝の光が草原を音もなく飲み込んでいく。その光はやがて二人を包み、ミサトは思わず目を閉じた。

目を開けるとミサトは自宅でへたり込んでいた。訳もわからないまま足についた草を取り、ボサボサに乱れた髪を整えた。その間、涙は絶え間なくこぼれ続けた。携帯のアラーム音で我に返り遅刻を覚悟したが、今日が休日だと分かるとまたへたり込んだ。

迷った挙げ句、ミサトは昨晩のバーへ足を向けた。[CLOSED]の看板を無視してドアを開けると、見慣れないバーテン服の男性が顔を出した。

「いらっしゃい。すいませんお客さん、まだやってなくて」

その気のいい声にミサトはたじろぎ、ついでに目的を失ってしまった。少しの沈黙の後、ミサトは目をそらしながら言った。

「あ、すみません突然。昨日ここに来たんですが、お会計を連れが持ってくれたので、その、ちゃんと…払えてたかなと……」

我ながら中々の間抜けっぷりだ。バーの会計をわざわざ確認する客など居るはずもない。普通に失礼だ。仮にちゃんと払えていなかったらどうするつもりなのだろう。

店員さんもさぞ困り顔だろう、と視線を動かし顔を伺う。しかし店員は困った顔一つせず、暖かな笑みで応えた。

「昨晩カヤさんと一緒だった方ですよね?あの人ウチの常連なんですよ。…お代はちゃんと頂いてます。大丈夫です。それに、」

朗らかに話していた店員は、にわかに口角を上げた。

「あなたに出してたドリンク、全部水だったので」

お代は要りません。店員はいたずら成功といった満足げな顔をした。その不敵な笑みにミサトは笑いだした。まぶたは赤く腫れ、目の前は涙で滲んでいたけれど、いつまでも笑った。店員の差し出すタオルを受け取りながら、ミサトは心のうちで呟いた。

私の涙が止まったとき、また夜を見上げよう。この世界を覆い包み込む、この夜を。


-END-

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