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言語化した方が良いものとしない方が良いもの

現在、転勤族の夫と結婚し、新卒から勤めた会社を退職後、専業主婦をしています。
その中で、自分の人生を見つめ直し、自分に何が出来るのか、自分の強みは何なのか、世の中に価値提供出来ることはどんなことかを日々考えながら模索する毎日です。

今日は、いつもの仕事やキャリア、夫婦関係の話ではなく、自分の趣味の話から実生活と組み合わせて、得たことについて書きたいと思います。

わたしは、保育園のころからピアノを習っています。
一度中学で部活と受験のために辞めてしまったのですが、大学の時に再び始めて大人になった今でも続けている趣味の1つです。

このずっと続けているピアノがわたしの中で、学びの宝庫であり、そこから得られることは自分の人生に通じることばかりだなと思います。

たくさんある学びから、今日は「言語化する」ということについてフォーカスしてみようと思います。
芸術の世界には言語化した方が良いことと、言語化してはいけないことがあるなと、気づきがあって面白いなと思ったのでここに書いておこうと思います。
今日の記事は、特に誰かのためになるような記事ではないので、自分がただ思ったということを書いております。

言語化することで得られるメリット


わたしは、このnoteもそうですが何か自分の中に沸き起こった感情を、言語化していくということを大切にしています。

自分の中に出てきた感情を言語化することで、よりはっきりと自分に起こったことを認識できます。
また、言語化することで起きた感情をさらに詳しく掘り下げることもできます。
つまり、自分の中にあるモヤモヤとしたものをはっきりと明確にすることだと思います。

自分の中に負の感情が湧きおこったときに、この感情はまず「悲しい」「寂しい」「悔しい」「憎い」「羨ましい」何に当てはまるのか。
それが悲しいだった時に、さらにそれはどのように悲しいのか。なぜ自分は悲しいと思ったのか。どの事に対して悲しいと思ったのか。

色々な切り口で考えます。

湧きおこったことに対して、自分が感じること、そして自分の何がそうさせたのか、1つずつ丁寧に考えて言語化していくと、自分の考えがはっきりしてきます。

ここの自分の考えがはっきりするという段階まで来ると、自分が何をすべきなのか、何を直すべきなのか、相手がいる場合は相手に何を伝えるべきなのか、次の取るべき行動が明確になります。

そうして行動してきたことが、自分という人間を作り上げているんだと思います。

また、自分の中でしっかりと言語化していないと、相手に自分の気持ちを伝えることが出来ません
小さな子供がその典型例ですが、子供は語彙力がまだ少ないので、親や先生などに何か伝えようと思っても、自分の意見を的確な言葉に置き換えて話すことが出来ません。

これは練習したり意識していないとなかなかスムーズにできないなと思います。

何か問題を解決したくて話し合いをするときに、この言語化というのが大切になってきます。わたしは夫婦での話し合いで、この言語化の大切さを嫌というほど知りました。

言語化が苦手な夫との話し合いの記事はこちら。

ここまで自分が大切にしてきている言語化ですが、ピアノ(芸術)の世界では言語化はしてはいけないないなと思うことがありました。

芸術の中での言語化は具体的になりすぎる


音楽を聴いている時に、皆さんは何を思いますか?
ポップスなどは、曲に対して歌詞がつけられているので、その歌詞の意味を考えたりするかもしれません。

しかし、クラシックの音楽には歌詞はありません。
わたしがクラシック音楽の魅力だと思っているのは、この歌詞がないということです。

歌詞がないと、演奏者にある程度の解釈が委ねられています

そんな中でわたしは現在、ドビュッシーという作曲家の曲を弾いています。このドビュッシーという作曲家は印象派と呼ばれています。

印象派というその名の通り、曲を聴いていると、その時代の風景や風の音や匂い、街並みや自然の動きなどが見えてくるような曲想が特徴的です。

どんな風景を感じて、どんな音を出したいか

わたしはこれを今までのように言語化して楽譜に書き込みをしていたのですが、何故かどうもしっくりこない。

そして、レッスンの時に先生に言われたことでハッとしました。

むやみに言語化してしまうと、たちまちちっぽけで薄っぺらくなってしまうものもあるんだよ

わたしは、確かにそうだな・・・と思いました。

言語化することのメリットは物事のモヤモヤとしたものをはっきりと明確にすることでした。
でも、芸術においてはこのモヤモヤがいいんです!!
このモヤモヤが味を出しているんです!!
このなんとも言えないふわっとした感じ、言葉にできない心をきゅっとするメロディーたち。
奏者にある程度の解釈が委ねられていると同時に、聴く人にも解釈が委ねられます。

そこから自分が何を考えるのか、何を思うのか、何が見えるのか、聴衆に考える余地を与えるというのが、音楽には大切になってくるとのこと。

確かにな~~~と思いました。

そして、弾く側の自分に対しても、絶妙なニュアンスの部分を細かく言語化してしまうと、せっかくの絶妙さが急に理解しやすいものに変わってしまう感覚があるんですよね。

すごくうねうねとした哀愁ただよう美しいメロディーでも、ここは「悲しい気持ち」と名前を付けてしまうと、なんだか急にシンプルな単純な感情に変わってしまうような気がします。

このモヤモヤとした心の動きって、人間特有だと思うんですよね。
そういうのってすごくわたしは大切にしたい感覚です。

ピアノを弾くときにこのモヤモヤを心の中にモヤモヤのまま持っておくことが、より本質の芸術に近いんじゃないかなと思いました。


これは、大人になってピアノを弾いていて感じることで、子供の時なんかは全くこんなこと考えていませんでした。
むしろ、その音を間違えずに弾ければOK!という感じでした。

でも、色々と考えながら音を探っていくというのがわたしにとっては楽しいことであり、毎日の気づきにつながっているので、この感覚は大切にしていこうと思います。


今日は、全くだれかの役に立つとは思えない内容でしたが、今のわたしを作っている感覚的な話でした。

最後までお読みいただきありがとうございました。


シンバ🦁


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