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大塚広子 Interview

昨年10月、Soul Mattersの2周年パーティにゲストDJとしてお呼びした大塚広子さん。国内屈指のレアグルーヴイベントの1つ「CHAMP」のDJであり、数々のジャズにまつわるイベントで活躍なさってます。12月には、日本の現代ジャズを集めたコンピレーション『PIECE THE NEXT』シリーズの最新作『PIECE THE NEXT JAPAN BREEZE』(2周年でライブ出演したOsawa Birdwatcherzの曲も収録されました)、大塚さんがプロデュースするユニットRM jazz legacyの『2』が同時にリリースされました。2月に『2』のリリースライブが「CHAMP」と連動して行われるとのことで、以前行ったインタビューを公開します。インタビュー自体は新作リリース前のものですが、大塚さんが今のDJスタイルに行き着くまで、DJでのこだわり、コンピやプロデュースに至る経緯をお聞きしました。大塚さんの魅力を再発見するきっかけになれば幸いです。是非ご覧ください。

(インタビュー・構成:島 晃一

――大塚さんはジャズDJとして知られていますが、スタンダードなジャズのイメージではないですよね。

大塚広子(以下O):多分みんなそうだと思うんですけど、ジャズを掘りたいと思った時に、なにかしらきっかけをつかもうとする。それで、ブルーノートの入門編みたいなディスクガイドを1冊買ってみたんですが、それがつまんなくて(笑)。その本が自分に合わなかったから、たぶんスタンダードなジャズが刺さらなかったんです。そうじゃないジャズに出会わなかったら、今の自分になってないと思う。

――なるほど。その時に読んだのはDJ視点のものではなかったんですね。

O:そうです。それにDJ視点のジャズと言っても、クラブジャズとかアシッドジャズも刺さらなかったですね。TheRoomに遊びに行ってみても、その時はちょっと大人っぽすぎてドキドキして終わったくらいで。クラブジャズとも出会いがなかった。それが90年後半、2000年くらいかな。

――そうやって遊んでた時はDJをもうやっていましたか? DJを始めたきっかけを教えてください。

O:トミー(前回インタビューした「CHAMP」の主宰・冨永陽介さん)と一緒でビックリしたんですが、高校生の時はオシャレしたくて、雑誌『CUTiE』の藤原ヒロシさんのコーナーを読んでました。そこに、プレイリストとクラブのスナップショットのページが必ずあったから、オシャレな人はクラブに行くしレコードも持ってるんだと思い込んだ。それで、そのプレイリストに書いてある歌舞伎町の花園神社にあったミロスガレージに行ってみたら、怖いロカビリーのイベントをやっていて(笑)。当時はDJ DOC.HOLIDAYって名前で須永辰緒さんがやってたり、藤原ヒロシさんがムラジュンとやってた、ソウルがかかってるイベントに行ったり。そういったイベントのスケジュールをいっぱい集めてました。

クラブ遊びで音楽を知ってから私もレコード持ちたくなりました。たまたまディスクユニオンさんが地元の柏にあったもんだから、分からないながらも買いましたね。

最初にDJしたのは高校生の時、レコードをかける機会を友達と作ったのがきっかけです。その時はパンクとかかけてましたね。「ロンドンナイト」が好きだったから、そこで盛り上がってる曲を調べて買いに行ってました。でも、パンクってかっこいいと思いつつ、音楽としては何がいいのか分からないままでした。

――みんなが盛り上がるから買うという感じですか?

O:そうです。でも、何がいいのか分からなかった時期に、藤井フミヤさんがパーソナリティをやってるラジオ番組を聴いたら、藤原ヒロシさんが選曲してたんです。そこで流れてくるMarvin Gayeとかのソウルミュージックを聴いて、なんて素晴らしいんだろうって思った。それからソウルを聴くようになりました。

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(写真提供:寺西孝友)

――本当にトミーさんと近いですね。それは「CHAMP」が始まる大分前ですか?

O:大分前ですね。「CHAMP」には22、3歳くらいの時に初めていったと思うから、遡って5年前くらいの私です(笑)。大学入った時くらいに「Free Soul Underground」に行ったり、Organ barがオープンしたり。Organ barでMUROさん、DEV-LARGEさんたちが月曜にやってたイベントでヒップホップも知りました。そして渋谷レコード文化に突入するっていう(笑)。

その辺りから、7インチの、プライベートレーベルのファンクをかける流れも出てきました。Ryuhei The ManさんやMUROさん一派のSIMONEくんとかが、ヒップホップネタのファンクだけじゃなく、ちょっとコアなものをかけて。Organとか、当時は新宿にあったOTOとかで始まったそういう流れに衝撃を受けました。あとは、「SEARCHING」みたいなコアなイベントがあるっていうのも嗅ぎ付けて行くようになりましたね。

それで、もう分かってくると思うんですが、ディープファンク、モダンソウル、そしてディープジャズにどっぷり浸かって(笑)。そういうのを尾川雄介さんやRyuheiさんから知って。この流れはアーカイヴしてほしいですね。

――そうですね。ブログで見たり、口頭で聞くことは多いんですが、あんまりまとまった記述はないかなと思います……。「SEARCHING」の想い出ってありますか?

O:「SEARCHING」って最初は青山のfaiでやってて、立ち上げたのがDJのLincolnでした。その後、黒田大介さん、尾川さんもレジデントになって。オールナイトじゃなくて、ディナータイムだった気がします。パーティにはKeb Dargeとかも来てましたね。それから、スペイン坂の根本のところにあったLA FABRIQUEに移って大きくなったのかな。バンドもオーサカ=モノレールとか入ったりして、その時がたぶん最盛期だったかなと。あと、Lincolnは「BEBOP SQUARE」っていうダンスとジャズ系のイベントを「SEARCHING」とは別にやっていて、その2つが上手く機能してたと思います。ジャズダンサーの人達を観るのが楽しくて、よく仕事帰りに通ってたことを覚えています。

――当初ファンクだったわけじゃないですか。そこからジャズを掘ろうとなったのは「SEARCHING」が大きかったですか?

O:そうです。私はファンクと一緒にジャズのすごさも知りましたが、どっちかというとジャズの方が衝撃だった気がします。「SEARCHING」では7インチファンクだけでなく、ちょっと変な、「なんだこれは?」ってジャズもかかってたのかな。UKのレーベル、JAZZMANもそういう変なジャズをやってたり。プレイするには7インチファンクなんだけど、家で聴いたり自分にぐっと刺さったのは、圧倒的にプライベートジャズの方でした。特にブラックパワー万歳みたいなのは本当に好きだったので、それをドンドン集めるようになりました。

――「CHAMP」入る前からもう集めてましたか?

O:そうなんですけど、それまでの自分のプレイスタイルと違うものだったから、クラブでかけるのはとても勇気がいるんですね。

――ファンクやヒップホップをかけてる中でジャズをかけるってなると?

O:そうです。「CHAMP」にはいる前は、私のプレイもよくあるネタモノのジャズファンクとか、ヒップホップとか、もうちょっとキャッチーなものだったので、どう入れ込むかは結構悩みました(笑)。MIXテープだったら踊らせなくてもいいから、ちょっとディープなやつを入れたり試行錯誤しながら作って、自己アピールをがんばってた。「CHAMP」でもこういうのが一応受け入れてもらえるのがわかって、そこからディープなジャズをどうやってクラブでかけるかっていう葛藤が始まったりするんですが(笑)。買ったからにはかけたいけど、ちょっとこれは黒すぎるかなみたいな。そういう葛藤です。

――当初「CHAMP」でファンクとか買ってたのはトミーさんと大塚さんだけで、他の人はヒップホップ、R&Bだったと聴いています。その中でジャズをどうかけるかという。

O:しかも、ジャズをかける人もその時の「CHAMP」ではいなかった。ジャズって人によって、捉えてるものが全然違うものだから……たぶん沖野さんのイベントでもハウス4つ打ちメインだったと思います。本当にジャズをかける場所ってあんまり聴いたことがなかったんです。その中でどうやっていこうかと。あんまりかける人がいないから、チャンスだと感じてたのもあるかも(笑)。

――踊らせるクラブジャズじゃなくて、ディープなジャズをどうフロアでかけて踊らせるかっていう。その時から踊らせるためにかけるっていう意識でかけるんですか?

O:「CHAMP」は30~40分くらいで交代するからサイクルが速いし、みんなキャッチーな曲をかけるからガンガン踊ってて。しかも、TheRoomは人の動きがよく見えるから、絶対に引かせちゃ行けないというのがプレッシャーでもあって、踊らせるのが第1条件だったのはすごく覚えてます。ずっとその意識でやってたかな。

――今の「CHAMP」と大分イメージが違いますね…。

O:本当にそうです。自分は盛り上げるDJじゃないっていうのはわかってたから、どこまで引かせずに行くかを考えると胃が痛くなるくらい。

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――最初のMIXCD『A New Peace』を作られた経緯は?

O:「Breakthrough」のLADIDADIさんたちが、MIXCDのシリーズを手がけてたんです。それで、Ryuhei The ManさんのMIXCDが出た後、「広子ちゃん、次に作らないか」って話を持ちかけられて作ったんです。「Ryuheiさんと並んでいいんですか!? すごい!」みたいな。それが最初だから2004年ですね。

頼まれて作ってみたんだけど、どうやってCDを知ってもらうかはわからないままだったから、それから全部自分でやってみようと行動しました。それまでの仕事もCDを作りたいがためにやめて(笑)。最初に作ったMIXのジャケットを変えたり、中身もジャズとヒップホップ混ぜてたのを、ヒップホップを抜いて、ジャズを全面に出すために完全に生音だけにして。その他に、もう1個の新しいMIX『A New Peace 2』っていうのを録って、自分でインフォメーション作ったり。前の仕事が地方営業する仕事だったので、仕事終わったらCD屋行って、名刺配ったり、デモ渡したりとかしてツテを自分で集めましたね。作品が出来たら、そういう人達に連絡してみたり、『レコードマップ』に書いてある所にも片っ端から電話をして、サンプルを送って知ってもらうように活動をしました。今より盛り上がっていた時代だったので1000枚単位で作りましたね。

――その当時、ジャンルを混ぜるDJって珍しかったんですか? 一回のプレイの中にヒップホップも入ってて、ジャズもあって。

O:作った時に「こういうのなかったよね」って言われましたね。ヒップホップ……っていってもみんな知ってるようなところと、プライベートジャズと、レアグルーヴが入ってるっていうのはあまりなかったみたいです。ヒップホップとネタモノファンクっていうのは、MUROさんの『I Love 45’s』っていう、すごい売れてるMIXテープもあったし、プライベートファンクだと黒田さんのMIXとかもあったけど、ジャズをヒップホップ感覚で入れてるっていうのはたぶんそれが初めてかな。自分で言うのもあれなんですけど。

――なるほど。当時から新譜のジャズと旧譜を混ぜてたりはしたんですか?

O:いや、新譜のジャズはノーチェックでした。新譜だと、アナログで出てるもので、DJライクに作られた踊らせる前提のものを買ってました。The New Mastersoundsだったりとか、現行ファンクの盛り上がりもあったから。

ジャズに関しては自分で買うものはアナログって決めてしまっていたけど、その頃アナログで出る新譜のジャズってクラブジャズっぽくて。私はもっとプライベートな、昔の匂いがするものが大好きだったから、買ってなかったですね。

――ヒップホップとか現行ファンクは買ってたけど、大塚さんが今手がけてる日本の現代ジャズコンピ『PIECE THE NEXT』(以下『PIECE THE NEXT』)シリーズにつながるようなのは買ってなかった?

O:まったくです。『A New Peace』シリーズを作ってた2007年〜2010年くらいまでは、クラブどっぷりで、大好きな昔のジャズで踊らせるのをがんばってた時期だったから、日本の動きを知らなかった。現代ジャズを語るメディアもあまりなかったし。ネットはあったのかな。でも、DJにその時出てる音がかっこいいっていう認識はほとんどないと思う。かっこいいものがCDで出てたっていうのは今更、『PIECE THE NEXT』を作っていろいろ発見をしたくらいだから、今の自分は反動かもしれないです。

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――その発見する経緯は何でしょうか? イベントでミュージシャンと一緒にやったりする中で面白いと思ったとか?

O:そうです。ジャズDJとしてなんとなく定着してきて、「CHAMP」以外で地方に行ったり、あと、六本木のAlfieっていうライブハウスで、レギュラーで毎週やりませんかって話をもらいました。で、2011年の震災が起きたぐらいに、自分でイベントも始めた。あとは、その前に、昔の日本のジャズ、和ジャズも集めていて、それからTRIO RECORDSのオフィシャルMIXをやったのが大きいかもしれないです。ジャズのレーベルを知ってもらうために作品を作れるのって念願だった。植松孝夫さんとか、MIXに入れてるジャズミュージシャンと、MIXCDのリリースイベントで一緒に出ることが出来ました。

――それでライブでの出演が増えただけでなく、ジャズ喫茶とかでもやり始めるじゃないですか。DJブースも入れたりして。

O:私はジャズ喫茶とかも最初はそんなに興味がなかったんです。寺島靖国さんがどんなにすごい人かも知らないで、たまたま友達に誘われたからジャズ喫茶のMEGに行ってみて。でも、寺島さんが珍しがってくれて、いきなりイベントやってよって振られた。

それで、反抗心っていうか、ジャズに対してアンチなことをしたいっていうのは昔からあったから、ジャズ喫茶でジャズダンサーやDJを呼んで踊るイベントだったら面白いなと思ってやりました。そしたらけっこう人が入って。寺島さんも一応喜んでくれたのかな。それで「DJ機材を買うから定期的にやってよ」と(笑)。模索しつつ、須永辰緒さんや福島のDJ MARCYさんを呼んだりしてイベントをやりました。

そういう事をやっていくうちに、須永さんと寺島さんは世代は違えど共通する意識や嗜好を持っているんじゃないか、とか、ジャズの中でもいろんな考えがあるのが少しわかってきたんです。今までは自分の好きなレコードしか見れなかったんだけど、ジャズを俯瞰できる気持ちになって来たというか。そうした中で、自分がこれまでやってきたことにどう味をつけられるかを模索してた時期だったと思います。

――新宿のPIT INNにもブースを入れましたよね。

PIT INNにDJブースを入れるきっかけは、トランぺッターの類家心平さんかもしれないですね。類家さんのイベントでDJやってくださいって言われて。その時に手応えあったから、店長の鈴木さんがDJをちゃんとやれる環境にしたいと。PIT INNではDJ KRUSHさんがBill Laswellのバンドでライヴしていたり、日野皓正さんがDJ HONDAさんとやりたがっていたりしていたから、ニーズもあったんですね。


――その辺から、だんだんRM jazz legacyのプロデュースにつながるような人脈というか、ミュージシャンとの関係ができてきたんですか?

O:あと、MEGで知り合った大河内さんという人に、サラヴァ東京でジャズのイベントやりたいって言われて、DJをサポートで始めたんですが、その人は若いミュージシャンのライブをブッキングしてたんですね。例えばKineticとか、『PIECE THE NEXT』シリーズに入れたようなミュージシャンを早くから呼んでいたり。その時は、すごいミュージシャンがいるんだなくらいに思ってたけど。今の若い人たちとはそれでつながってる気がします。

――そこで音源を聞いたり?

O:ライブでもらったサンプルCDとかで、良いと思う曲に出会いました。例えば丈青さんたちのDe La SoulやRoy Hargroveのカバーを聴いて、「かっこいい、普通にかけれる」って。そういうのを私だけ聴いてるのももったいないと思って、それが『PIECE THE NEXT』につながってるのかもしれないです。

その頃、ジャズ評論家の柳樂光隆さんにも出会って、ジャズ喫茶のいーぐるに行くようにもなりました。そこでいろんな講演を聞いて、いーぐるでヒップホップかかるのはかっこいいなと。Twitterで柳樂さんが言ってる、ジャズを新しく更新しようとする発言もすごく響いて、いろいろ情報交換するようになったら、新譜や2010年頃の新しい音源を次々くれるわけです。それまでレコードばっかりだったから、知らない世界がいっぱいでした。

――柳樂さんの感覚と、現場でライブとか聞いてる自分の感覚が合った?

O:確かに。クラブだけじゃなくて、ちょっと目を広げてみたら感覚があったというか。多分、震災があってクラブも集客が落ち込んだり、風営法の話があってた時期だったりもして、同じことを続けていてもしょうがないと思ってたので、先を見るためにって考えてたのかもしれないです。

――大塚さんはライターの仕事もしてますよね。それもけっこう早くからやり始めましたか?

O:いつからだったんだろう? TRIOのオフィシャルMIXの仕事ができたから、それでレビューだったり、ライブレポートを『ジャズ批評』誌でやってくれって頼まれたり。今思えば、ジャズ・レーベルの仕事がなかったら、たぶんDJ以外の仕事、特にライターの仕事を頼まれることはなかったと思います。ジャズという日本で認知されたしっかりとしたジャンルだからかもしれないですね。本当にジャズは大きいなと。大きいからこそいろんなことが……。

――そうですよね。他のジャンルに比べてメディアも強いと思うし。だからこそ反発心みたいなものも生まれてくる?

O:そうそう(笑)。私たちの世代は、すでに出来上がっていることに対して色々な葛藤があったり、どう新しくしていこうか考えてると思います。すでにある価値観のなかに隙間を見つけて、どう面白く提案するか。こういうジャズもあるよ、こういう楽しみ方があるよっていうことですね。


――大塚さんがプロデュースなさったRM jazz legacyの話になるのですが、そうやってライブでいろいろミュージシャンと共演して行く中で、その「隙間」になるような音源をまとめようって思ったのが最初ですか? 音源を作るよりも。

O:まとめようと思ったのが最初です。TRIOのMIXCD以降、ジャズ・レーベルを紹介する作品が続いていたので、今度は初心に戻って、一から探すところから自分でやろうと思いました。

それから、新しい曲で、自分が本当に作りたい世界を作ればいいんだと思いついて、『PIECE THE NEXT』をやろうって決めた。権利の問題が大変だから、ディスクユニオンさんにも協力してもらった。

その時に、RMのリーダーでベーシストの守家巧さんに会いました。それで、「RUMBA ON THE CORNERっていうグループで、レゲエとジャズ合わせたライブをやるから、DJで入ってくれ」って言われて。ライヴを聴いて「やっぱり今の人たちってなんかある」って思いました。コンピの話をしたら「なんか1曲作ろうか」って。彼もジャズミュージシャンじゃないから、ちょっと客観的にジャズを見てる人というか。これとこれ行ったら面白いっていうのをパパッとやってくれました(笑)。

で、できた曲が、すごくいいじゃんと(笑)。最初は、自分がプロデュースして曲を作るなんてあんまりやりたくなかったんですよ。私はあくまでいい曲を選ぶ人でいたいっていう気持ちがあったから。でもこういうのがあったらいいかなという感覚で、売り曲としてコンピに1曲入れることした。それで1曲できたぐらいです。最初は。

――その時点で、RMのファーストアルバムの構想はなかったんですか?

O:ないですね(笑)。それにしてはmabanuaさんが叩いてくれたり、よく出来たなって感じなんだけど。その1曲ができて、一応ライブをやることになったら、SMASHの栗澤さんが気に入ってくれて、「フジロックフェス」に出ないかと持ちかけられたんです。そこは私が頑張ったんだけど(笑)。で、フジロックが決まったから数曲作って、持ち曲が溜まったからアルバムを出すことになった。

――そこでの大塚さんの役割はなんですか?

O:最初の構想を守家さんとすごく時間をかけて練りました。なんとなくの曲の構想だったり、リズムはどんなものがいいとか、ウワモノがこういうのがいいとか話しました。あとカバーの案を出し合ったり。それと人選。誰がフレッシュだとか、あの人とあの人の組み合わせはどうだとか。そこから後の、実際のアレンジはお任せしました。ジャズミュージシャンは完璧な人を選んでるので、そこにはタッチしない。私は曲を作るっていう頭はないから、こんなのがあったらいいなって所から話して。あとは作品ができた後に、ブッキングの窓口になったりというのが実質の動きですね。

――カバーだと、意外な所でAl Greenとかもありますよね。

O:甘いやつが欲しいと思って提案しました。類家さんがあんなにメロディアスな曲ってないと思うんで、あの人の囁くようなミュートで吹いてもらったら、コロっといくんじゃないですかねって(笑)。

――RMのファーストアルバム、リズムは難しいのが多いですよね。「Reborn」や「African Water」が好きなんですが、DJの時はベースを頼りに聴いて使うことが多いんです……。

O:ドラムをいじくるのが今っぽいですからね。DJにとっては使いにくいのかもしれません。でも、今のジャズを聞いちゃうと、かっちりしてるブレイクビーツっぽいのがなんか古くさく聞こえちゃうときがあって……今まですごい好きだったくせに。


――そこをお聞きしたくて。現代ジャズって踊りやすくないものもあるじゃないですか。それでも、DJの時に踊らせるっていうのは基本にありますか?

O:私のルーツは「CHAMP」の現場にあるので、もうそこは踊らせるのが第一優先です。お客さんのためになるように、楽しませるためにって。場所によってタイプは変えるんだけど、真っ暗なクラブでかける時とバーでかける時はやっぱり変えるし。

私の場合、踊らせるって言っても、こういうリズムだから踊らせられるというよりは、どういう組み合わせで聴かせて、高揚させるかを考えるのが好きで。リズムパターンとかじゃなくて、どうやって崩させるかに重きを置いてるようなタイプなので、前々から「CHAMP」でも変拍子っぽいのをかけつつ、正直ヘンテコなミックスをしながらも、私の中で「ここがくるんだよね」っていうのがあったりするんです。ポリリズムと同じことなんだけど、変拍子に4つ打ちを混ぜて、どっかで合う瞬間にものすごい興奮するという。Theo Parrishとかもそうなんだけど、混沌としてる中で、どこかで合う時に高揚する。それは人の動きだけでは判断できないと思います。場所によっては足が動いてなくても、聴きながら気持ち的に高揚する所を作りたいなと。

――それはミックスしてる時、混ぜてる時ですか?

O:ミックスしてる時です。でも必ずしもミックスしない場所もあるので、なんとも言えないんだけど、そう言う時は全体の尺の中で曲の組み合わせや順番だったり、トータルで見てポイントを作るとかそんな風に考えます。

――その点についてですが、最近United Future Organizationの「Loud Minority」をかけますよね? 大塚さんがクラブジャズをかけているイメージが全くなかったので興味深かったです。ポイントポイントであの曲を全部かけきって、展開変えたりしますよね。そういった組み合わせの中で盛り上がりを作ったりするんですか?

O:そうです(笑)。あれは戦略的な1枚としかいいようがないんだけど、迷った時にかけるか、煽りたい時にかけるかぐらいだけど、しかも7インチでかけるのがポリシーです(笑)。あれをかけてどうするか。どこでその曲を入れるかでその先が変わっちゃうので。ここでやんなきゃよかったって失敗するときもあるから、そういうのも面白いんですけどね。

――DJのタイプを変えるって仰ってましたが、ライブ前のDJって変えます?

O:変えます。転換の前か後ろかにもよるけど、この人たちはこういう音っぽいなって勝手に想像して、それっぽく持ってくか逆にするかですね。PIT INNでやる時は重ねてもらうことが多かったり、DJしながら入ってもらうとかも多いから。その人達の雰囲気に合うように持っていきます。

――事前に曲を聴いて来て?

O:そうです。それに私の場合、知ってるミュージシャンの人が多いから想像できるので、ライブ前を上がるような感じで終わらせるだとか、次が1番だよという風に持っていくようにしています。自分は1番華じゃないから、最近葛藤があるんだけど。でもね、割り切ってやれば楽しいかな。例えば黒田卓也さんの前だったら、新曲がアフロっぽいから今日はアフロセットにしようとか勝手にイメージしてやれるから。自分の中でテーマを作らないと正直マンネリしちゃうので、それを作れるいいきっかけにもなります。

――RMは7インチを最初に切って、LPだったじゃないですか? アナログになると反応変わりますか?

O:逆にそれ聴きたい。どうですか?

――僕はアナログだと反応しますね、確実に。でも、大塚さんにこうしてインタビューするにあたって、CDをチェックできてないことを痛感しました。『PIECE THE NEXT』の1作目も恥ずかしながら今になって聴いたんです。守家さんによるカバーとかも本当にいいですよね。フロアで使いやすい。DJは反応すると思います。

O:Joe McPheeのカバーですよね。よかったです(笑)。実はそれを狙ってたんです。DJにも聴いてもらえる作品にしたくて。守家さんのカバーも『PIECE THE NEXT』のためにやってもらいました。あれはオリジナル盤が好きな人には許されないかなって思ったんだけど、そうじゃないと新しいことできないかなと。

――やっぱり『PIECE THE NEXT』シリーズはクラブを意識してますか? リスニングではなく、自分のミックスを作る感覚と同じで。

O:そうですね、自分でかけたい曲をミックスしてやったって感じですから。それをなかなか毎年はできないんですけど。

――もう一度、守家さんのカバーに戻ると、挾間美帆さんいいなとか、あの曲をきっかけに前後の曲が聴けますね。

O:ジャズには、そもそもミュージシャンの個性を楽しむという聴き方があって、それでファンが固定化していますよね。でも私はクラブで、いろんな音楽を純粋に楽しんでいるフロアのお客さんをたくさん見てきたので、一旦ミュージシャンのイメージをとっぱらって音だけで聴いてほしいっていう想いがあったんです。見た目だとか、どこどこの雑誌が推してるとか、意外にそういう印象がついちゃってることも多いけど、イメージで線引きされていたらもったいない。正統派なイメージがある方でも、クラブでかけれる曲もやってたり、そういう発見から新しいミュージシャンを知ってもらったり音楽を楽しんでもらうきっかけを作りたかったので、それが出来ていたらいいですね。

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【大塚広子】
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【島 晃一(Soul Matters / CHAMP)】
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島 晃一の執筆仕事一覧はこちらから。
https://note.com/shimasoulmatter/n/nc247a04d89ed

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