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I Recall, Therefore, I Am

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山あり谷ありの海外生活。今思えば毎日が自分を作る・伸ばすチャンスの場でした。チャンスをつかんだこともあれば、逃したこともある。そして今振り返ってやっと”あれがチャンスだったんだ”…
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#思い出

あの時はありがとう:お尻押し係のトビー氏

アメリカの大学留学中、私はギリギリのギリギリになるまでやる気がわかない学生だった。 あれから随分経った現在も似たようなものなので時間のプレッシャーに押しつぶされる時に最高の出来の何かが書ける人間なのだ、と諦めている。 何の宿題でも前日、前夜に取り掛かり、徹夜でやり終えるのが常だったが、だいたいはその直前までお酒を飲んだりもしていた。 そんな私には夜更けに宿題をしているかどうかを確認する電話をかけてくる友達がいた。トビーだ。 *以前書いた記事を編集・加筆して再掲載しています

はじめてのおつかい(シマちゃん、30歳)

中国の大学で仕事を始めてからキャンパスを出る時は常に中国語が話せる外国人教師の同僚か英語を話す現地の教師と一緒だった。というのも私は全く中国語が話せず、1年限定の仕事(の予定だった)だということを理由に、特に学ぼうともしていなかったからだ。(*現在はアメリカ東で教師をしています) そんな私が2ヶ月ほど経ったある日、初めて一人でお使いに出た。 欲しかったのはパンとバターだ。 大学では3食とも職員食堂で食べていた。こってこての中華で(当たり前)美味しかったのだが、毎日毎日お米

記憶の中のギタリスト

現在進行形でとあるギタリストに夢中な私だが(夫ではない笑)、コロラドで大学院に通っていた時のボーイフレンドもプロのギタリストだった。(*現在はアメリカ東に在住です) といっても彼はクラッシックギターが専門で、市のオーケストラとコンサートホールで演奏することもあれば路上やカフェでなどでもよく弾いていた人だった。 初めて会った時も彼は自宅アパートの外階段で上半身裸で長い巻毛がギターに被さるほど頭を下げ、美しくギターを弾いていた。 もう20年会っていないが、時々彼のギターが聴きた

バレンタインデーとキラキライケメン

2月14日を真剣に“やってやろう”と思ったのは高1の時、一度だけだった。それ以降は勝負をかけていない。 一応言っておくとまだ昭和の時代である。 同じクラスになった彼はなんと小学校4年時のクラスメイトで、私が引越しで転校するまでの1年間毎日顔を合わせていた。それ以来の再会となったのだが、私は顔を見て名札を見ても一瞬彼がわからなかった。 小学校の時はごく普通のぽっちゃりさんで勉強でも運動でも目立たず、特に何とも記憶に残らない男子だったその彼が、キラキラと輝く背が高いロン毛のイケ

”タオル”って何て言うんだろう

スペインのセビリアにある小さなアパートにやっと辿り着いた時はもうすでに夕方だった。 中国を出て、次はどこに行こうかな、と考えた時になぜだかスペインに決めてしまい職を見つけたのがセビリアだったのだが、引っ越しのバタバタとビザやらなんやらの手続きでなんの下調べも準備もせずにスペインにやってきた。 その時のお話はここから↓ 必要なものは現地で揃えればいいや、と軽い気持ちだったのだが、1月のセビリアは私が思い描いていたような”南国の”冬ではなく(なぜだか鹿児島みたいな気候だろう

敦煌:鍋の中

21世紀の幕開け、2001年へ年が明けるその時、私は敦煌にいた。 1年間という約束で、アメリカから中国へ一緒に行った彼は上海で働いており、田舎に派遣された私とはひと月に一度くらいしか会えず、寂しかった私はその彼が敦煌の中学校に3ヶ月ほど出向くということになった時に、敦煌まで訪ねて行った。 大学時代に歴史の授業を沢山とったけれど、ほぼ全てがアジア以外の歴史で、中国史といえば毛沢東あたりからのことしか知らない私も、西安には兵馬俑があり敦煌はシルクロードの分かれ道くらいは知って

謎の写真いろいろ:もう忘れたあの場所

私が初めてデジタルカメラを手にしたのは1999年の初め頃だった。コロラドで知り合った当時の彼が持っていたのがSONYが出していたデジタルカメラだったのだが、もちろんSDカードもまだなくて、内蔵メモリ分しか写真を撮れないので毎日写真を撮っては家に帰りパソコンに繋いでダウンロードせねばならなかった。画質も荒く素晴らしい写真は撮れなかったが、”ハイテクやなーーー”と感動したのを覚えている。*SONYのHPに写真がありました↓ 自分で買ったのはもっともっと後で、多分2003年か20

駄じゃない駄菓子

駄菓子屋さん、って近所にありましたか?そしてそのお店には名前があり、看板があり、店名がありましたか? 周りの風景が思い出せますか? 誰ちゃんや誰くんと連れ添って、いくらのコインを握りしめて通っていたか覚えていますか? 宮崎の田舎で育った私がまだ小学校に上がるかどうかの昭和後半ですら、”これぞ駄菓子屋” という風情の店は少なくなっていたのではないかと思います。 私が思い出す唯一の”駄菓子屋” は、海バタの、小さな漁船が連なる入江のような場所から階段をちょっと登ったところにあ

薄暗い記憶

この街には何ヶ月住んでたっけな。毎日学校と自宅の往復で、たまの休みにやっと観光客が訪れる公園や、大聖堂や、広場なんかにちょろっと行くことが出来た。違う街に引っ越すまでに全部行きたいと思っていたけれど、果たしてどこに行けなかったのかも覚えていない。 美しい街だったけれど、結局はあまり好きになれなかった街。 昼間は観光客で賑わっていてあまり目に見えないけれど、夜になると道路に散らばるゴミや犬のフンやタバコの吸い殻が本当に嫌だった。 仲良くなった生徒や同僚は本当に優しかったけ

”青春”時代の歌って何?

"What songs bring you back to your youth?" という質問が生徒から来たことがあります。 そんな風に聞かれ、私にとっての youth は中学生でも高校生でもなく、大学に入った頃かなぁとなんとなく感じたのを覚えています。中・高校は ”子供” との認識で、その時代は youth に入れなかったーーー40代の私から見た青春は18−20くらいだったのでしょうね。それほど20歳はもう遠くなっていたと言うことです。そう思うと、現在30代の人の”青春

みなさんの”ちゃんとした”お弁当には何が入ってますか?

最後に”ちゃんとした”お弁当を食べたのはいつだろうか。 そんなことをぼんやり考えたのは、夫との会話で、もう9月から彼のお弁当を作らなくてもよいことがわかったから。夫の職場(*アメリカの州立大学)には学食があるけれども、これまで昼過ぎまで授業がある日は日本のランチジャーやお弁当箱に詰めたBENTOを持って行っていた。お弁当、ではなく BENTO にしたのは、その中身は日本のお弁当にはあるまじきモノだったから(笑)。 私の職場は(*アメリカの私立高校)カフェがあり、そこでビュ

スパルタのカラオケ in 中国

アメリカの大学院でやや燃え尽きていた私は2000年の頭に中国で英語を教える職を得、1年間の予定で引っ越しました。中国語も話せず、右も左もわからずでしたが、なんやかんやで5年以上そこで仕事をしました。 決して中国の暮らしが性に合っていたわけではありません。どちらかというと毎日 ”早く出たい、中国から遠く離れたところに行きたい” と切望していました。あれから随分時間もたち、今振り返ると理不尽で不公平で腹立たしい思い出が山ほどある中、中国で学んだ大切なこと・・・自分のことだったり

音楽が連れてくる過去

学生の頃聴いていた音楽は“今”を楽しむものだった。 若い私は 今現在を楽しんだり、しんみりしたり、涙を流したり、愛を語ったりするために、この曲がふさわしいとかあのバンドのレコードをかけよう、と音楽を決める。 この歳になると音楽は過去を連れてくる。 今楽しんで聞いていたとしても、なぜか過去と直結している。 訪れた場所や、馴染みの喫茶店や、好きだった人や、私を振ったバカヤロゥなどにスルスルと繋がっている。 それは多分新しい曲を聞いたとしても、その詞であったりメロディであったり、

あなたには入らないよ、と言われた服

あなたはブティックに入った時に、 “あなたのサイズの洋服はないですよ” と言われたことがありますか? 私はあります!笑←今だから笑える 中国に住んでいた時の話ですが(もう20年近く前です)、その当時一般的に現地の女性はとても細くて薄っぺらく(すみません)、若い子は特に華奢な体型の方がほとんどで、日本では普通体型の私も彼女たちに比べるとぽっちゃり(というかデブ)とみなされていました。 若い子が買う洋服の店は日本のXSとかSが”普通”で、Mくらいのものの表示は現地ではXLでし