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「人間」として生きる。

別宅のベランダで、セミの亡がらを見つけた。

触るのは無理。不要のチラシにのせて、徒歩1分の自宅マンションまで運んで敷地の庭の土にそっと還した。
命尽きる前に迷いこんだのがうちだったのね、選んでくれてありがとうね、と思いながら。


以前はこんなことができる人間じゃなかった。
家の中で虫を見つけたらすぐさま抹殺への行動をとっていたし、亡がらの始末なんて自分じゃ絶対に手を付けなかった。

お花も同じ。
小学2年の時、じゃんけんで負けていやいや花係をやることになった。
やりたくなかった。
だいたい、花係はどんなことをするのか、誰も教えてくれなかった。
先生が教室に飾った花が枯れてしまい、先生にただ怒られて、その学期の通知表に「責任感がない」みたいなことを書かれて傷ついたのをよく覚えている。

それが、50年近く生きるうちに、わざわざフラワーアレンジメントを習ってみたり、花屋さんで働いてみようかとひっそりもくろんだりしている。


ひとつの出来事がきっかけで変わったわけじゃないけど、「暦」を意識して季節の移ろいを感じ、さらに自然、地球、宇宙、流れるエネルギーと視野が広がり、「人間とは、宇宙の中の地球という星の生き物にすぎない」ことに気づいた。
そうして、花や虫、他の動物の命も地球上の仲間という見方が根付き、同じ命ある仲間として、尊重したり愛でたりするのがごく当たり前と思うようになった。


日本にいれば、桜も、紫陽花も、向日葵も、紅葉も、椿も、そのシーズンを彩り楽しませてくれる存在。

あらゆる生き物がオールオッケーになったわけじゃないし、不快なものは不快だけど、殺生はなるべくしない行動をしている。


自然のリズムの中で生きていれば、栄養たっぷりの季節の旬の恵みを美味しくありがたくいただくのが本来の有り様。食が整っていればサプリメントなんてあれこれ必要ないはず。
「いただきます」と手を合わせるのは、食事を用意してくれた人、食材を運んだり作ったりしてくれた人、そして食となってくれた命にも感謝すること。
子供たちには、こんな意味をもっとしっかり教えたらいいのに。

お日様があがった光で目覚め、夜は暗闇の中で十分な休息をとる。
体の機能をできるだけ維持するため、頭も身体も適度な活動をして保つ。

そんなふうに、宇宙エネルギーの中でエナジーを得たり整えたりしながら日々暮らすのが、人間という生き物として一番無理がない。

そして、長年生きて体の機能が低下し寿命がやってきたら、意地になって生にしがみついたり無理にあれこれ延命しないで、天寿を受け入れ全うする。


そうあるべきなんじゃないだろうか。


地球の環境を人間のエゴだけで壊すのもおかしなこと、領土を広げて命を奪い合うのも愚かしいこと。


太古の遥か昔から、知恵と工夫で進化をとげつつも、自然と共生してきたであろう人間は、もはや行き過ぎてると感じざるを得ない。
だから、平安時代の貴族くらいの雅さに、つい憧れを抱いてしまう。



緑豊かな地域で暮らせるのが理想的と思いつつ、真逆の地域で生きている。
この時代の利便性をすべて捨てるのも今となっては無理がある。

そんな歪みを抱えつつ、それでも、少しでも「人間」として生きたい。


そのうえで、「わたしらしく」生きる。


人間としての意識がどうにか戻りつつあるので、あとは「わたしらしく」を見つけてたり作ったりしてゆきたい。


今朝も精一杯に、セミたちが大勢鳴いている。



京都では、鴨川の声を聞いてきました

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