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名前の不思議

わたしと同じ本名の人に出会った。
氏でなく、下の名前。

仮に「このみ」としましょうか。
わたしもこのみ。ボランティアで知り合った彼女もこのみさん。
漢字は違えど、読み方は同じ。


自分の名前を子供の頃から好きではなかった。

あてられている漢字も、読んだ響きも、控え目に言って好きじゃない、不快に感じる。

それに、世の中にゼロではないけどあまり見かけぬ名前だから。
変に目立つのも微妙な気分。
(注 :「このみ」はあくまで例えです。)



わたしの名付けは、母によるもの。
歌が好きな母は、「近所のお寺のお坊さんに画数のよい名前をお願いしたのに、その候補の中で気に入るのがなくて、私の好きな歌手の名前をつけたのよ」と自慢気に話していた。
迷惑でしかない。
その名の歌手が本当にいたのだろうけど、テレビで全然見かけなかった。
友達に名前の由来を話しても、「その人、だれ?」と言われて恥ずかしくなる。

しかも、母は歌が上手いのに、その遺伝子はわたしに1本も引き継がれていない。


なお、この文章を書くにあたって、その歌手について初めてGoogle先生に聞いてみた。
確かにおられた。でも、わたしが生まれる前に既に引退なさっていた。



もっと言うと、名字も嫌いだった。
つまり、フルネームの何ひとついいところがないのだ。

好きでも嫌いでもないならまだ良かった。はっきりとした残念感、嫌悪感しかない。
自分の名前をみるたびに、人から呼ばれるたびに、心の中でイライラモヤモヤ。
普通の名前の同級生が羨ましくて仕方なかった。
自分を表すものに不快感しかないなんて、控え目に言って相当不幸だ。
生きているだけでネガティブを背負っているのだから。
好きになろうとしても、感覚的なものなので無理なものは無理な話。

端からみれば、奇妙な名前でも何でもない。その名字も名前も、他の人が名乗っているなら特に変だとは思わない。

でも、自分に付けられ、自分がその名前で認識されているのは堪らなく嫌なのだ。
この感覚はHSPが成せる技だと思う。




下の名に関しては、職場で「このみ」さんに出会ったことがある。
当時、わたしは25、その「このみ」さんは30過ぎくらいだったと思う。
物腰が穏やかで、のんびりペースの優しい方だった。同じ名前のご縁だからと、新人のわたしを山の上ホテルのレストランに連れていってくれた。

それ以外に他の「このみ」さんと知り合ったことはなかった。


そして、まさにこの春。
二人目の「このみ」さんと出会った。

お互いに自己紹介しましょう、とグループラインの中で提案したのは彼女。
気さくで茶目っ気たっぷり。職場のこのみさんとは別のタイプのいい人だ。
先陣を切って書き込まれた自己紹介には「このみちゃん、と呼んでくださいね」と書かれていた。

────── いいな。
可愛いじゃないの、このみちゃん。
いや、わたしも「このみちゃん」と呼ばれたことは何百回もある。
でも、ちっとも嬉しくない。

どうしてなんだろう?
彼女がこのみちゃんなのは何も不快でない。
好き嫌いは別として、自分と同じ名前だから微妙ってこともない。


職場のこのみさんといると、ほんわかした気分になれた。
この春出会ったこのみさんは、クスッと楽しい気持ちにしてくれる人。

お二人みたいに素敵な人になれたらいいのに、とは思っても、それと名前とは全く別件。
この名前のままでは、むしろなれる気がしない。

わたしは「このみ」でいることが、どうしてもどうしても嫌で仕方ないの。



本名が嫌いな分、SNS上では絶対好きなを名前にしようと決めている。
このアカウントの名前は大好き。




ただ。
本名を嫌いなわたしを救ってくれる人がいる。
それは、わたしが崇めている人。
彼はわたしが道を踏み外さぬよう導いてくれる人。


彼の名前とわたしの名前は、捉えようでは対になる。
例えば彼が「山上太陽」さんだとしたら、わたしは「川辺月夜」というように。
それに気づいて、自分の名前はこうなるしかなかったんだと感動すら覚えた。


嫌でも嫌でも、きっとわたしの名前に意味があるのだ。
そう思わせてくれる人がいるのは、ちょっとした救いと奇跡。














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