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【超短編小説】 森の中の邂逅

「この辺でいいか……。」
随分山奥へ来た。
山道を登って眺望を楽しんだ後、獣道へと入る。少し歩いた先に、太く泰然とした木と、その隣に鎮座している古く大きな切り株を見つけた。
少し休憩しよう、とその切り株に腰を下ろす。
青々とした木々囲まれ、空を見上げると木漏れ日の向こうに、紺碧の空が広がっていた。今の季節では暑すぎる陽射しも、平地と比べて高い位置にあるこの森山では、暖かな柔らかい陽射しに変わる。
人生最期にはうってつけの場所だ、と思った。木々の間から小さな町並みが見える。自分の住んでいる地域と比べると、だいぶ小さな町だった。最初からこの町に住んでいたら違った人生になっただろうか……。そう思わずにはいられない。

いつまでそうしていただろうか。
森の中を泳ぐ風に背中を押されるように、おもむろに立ち上がる。

ふと目線を落とすと、足元に落ちているゴミを見つけた。こんな自然の中にゴミを捨てるやつがいるのか、もしくは落としたことに気づかなかったのか……。なんとなくそのままにするのが嫌で何気なくポケットに押し込んだ。

そろそろいいかな、と足元にある鞄から持ってきていたロープを取り出し、木の枝にロープをかけるため切り株に足をかけた……その時、
「こんにちは。」
2、30代くらいだろうか、少し年上であろう男の人が声をかけてきた。
突然声をかけられたことで、俺はロープを落としてしまった。森の中で、ロープ……人によっては大体何をしようとしていたか、分かってしまうかもしれない。俺は一瞬「しまった」という顔をして固まったが、取り繕うように挨拶を返した。
「……こんにちは。」
よくみると相手は穏やかそうな雰囲気をした細身の男だった。俺がしていた行動に気づいていそうだが、敢えて見て見ぬふりをしてくれたのか、すぐに言葉を投げかけてきた。
「すみません、いきなり声をかけてしまって。ちょっと落とし物をしたようで……。」
苦笑いしながら話してくる。悪い人ではなさそうだ。
「この辺で落としたんですか?」
「多分、さっきから探しているんですが見つからなくて……。見てない……ですよね。」
俺がその言葉に頷くと、彼は眉をハの字に曲げ困ったように辺りを見渡した。
本気で困っていそうな人を放っておくのは後味が悪いと思い、俺は探すのを手伝うことにした。
「どんな物を落としたんです?」
男は少し切ない顔で、指輪です。と答えた。俺は目を見開いた。
「え、それってかなり大切なものなんじゃ……?しかも結構高価な……。」
「あ、いえ。イミテーションの安物ですから大丈夫ですよ。」
「……でも、大切なものですよね?」
「……そうですね……。とても、大切なものです。」
視線を落とし、何か歯がゆい表情をする男性。とりあえず探しましょうと、俺は草や木の根っこが密集する森の中を、ひたすら目を凝らして探した。

それから5分から10分くらいだろうか。鞄を置いている切り株を中心に草をかき分けて探していると、視界の端で何かが木漏れ日に反射して光った。ハッとして光った辺りを探してみる。
「ん?……これは……!」
切り株からさほど遠くない草むらの影に、銀色の小さな輪を見つけた。俺は少し興奮した様子で男性の元へ走る。
「あのっ、これ、これはあなたの指輪じゃないですか…!?」
細身の身体を前に屈めて草むらを掻き分けていた彼は、俺の声にこちらを振り向く。駆け寄ってきた俺の勢いに少し驚きつつも、目の前に差し出された指輪に目を何度か瞬かせる。
そして、大きく目を見開いて俺の手ごと指輪を握りしめた。
「あぁ……これです。私のです。本当にありがとうございます……!」
何度も頭を下げ、手を握りしめる男性を前に、俺は何とも言えない気持ちになる。最期を迎えるために此処へ来たのに、まさか人に感謝されるなんて……。「ありがとう」を言われたのは何年ぶりだろうか。いつの間にか子供の頃の純真さを忘れ、全てに無関心になっていたことに改めて気付かされる。
いつの間にか太陽は真上に上っていた。
木々の間から溢れる陽光が、色濃く彼に当たる。なんとなく目の前の人が儚く見えた。
渡された指輪を大切そうに両手で包み込んでいた彼は、暫くすると先ほどポケットから出した、手紙が入っているであろう封筒に指輪を入れた。それから大切そうに手紙に願いを込めるよう祈るような動作する。そして少しの静寂の後、俺の前に手紙を差し出してきた。
俺は弾かれたように顔を上げ、彼を見る。俺の言いたいことが分かっているように、優しい目をした彼は俺に静かに語りかける。
「すみません、無茶なお願いだと分かっているのですが……どうしても、どうしてもこの手紙を本人に直接渡して欲しくて……。指輪を探してもらった上に頼み事など、本来怒られても仕方ないことをしているのは承知の上です。ただ、私はどうしても、今この街から離れることができなくて……。」
彼は必死だった。普段なら間違いなく冷たくあしらっているであろう面倒ごとで、何言っているんだろう、この人……とも思った。俺は死ぬ為に来たんだ。なのに、なんだろう……。「ありがとう」という久しぶりの心からの感謝をもらってから、先程まで確かに感じていた、心の奥底から侵食してくる鉛のように重たい黒い塊……それが消えていくような、身体全体が軽くなったような、そんな感覚に支配されている。
俺は今、どうかしている。
「…………場所は、どこですか……。」
今度はあちらが先程の自分のように、弾かれたように顔を上げた。
「……行って、くださるんですか……?」
「まぁ、いいですよ。息抜きになりそうだし。むしろ知らない遠い土地の方が、気が楽です。」
「……っありがとうございます!これだけはどうしても渡したかったんです……!彼女のことは今でも大切に想っているということを、どうしても、どうしても伝えたくて……!」
彼の目には涙が浮かんでいた。余程の事情があるらしい。俺には関係ないが、なぜだか断る気にならなかった。
まったく、今日の俺はどうかしている。目の前の彼は俺のことを心底良い人だと思っているんだろう。でも本当は違う。人に親切にすることは、とても勇気のいる行動だということを、俺は知っている。
男に気づかれないよう静かに深いため息を吐き出した後、俺は住所をメモしようと、ポケットの中にあるスマホに手を伸ばした。

「お住まいはどちらですか?……あぁ、そちらの住所では、もはや旅行になってしまいますね……。良ければこのチケットも使ってもらえませんか?」
彼は少し陰のある笑みを浮かべ、言葉を続ける。
「いいんです。私はもう使えないので……。そして、もうここには来ない方がいいと思います。ここは、暗くなると危険なので……。彼女にもそう伝えてください。」

そう言って彼から預かったのは平日の午前中に行くと温泉が3割引きで入れるチケットだった。
結局あの日は、手紙と指輪、そしてチケットを預かり住所をメモした後、山を降りた。帰りの電車を待っているとき、最後を迎えるために駅に着いたあの朝の時間との感情の落差に静かに驚いた。あの時は晴れた空でさえも曇って見えていた。足も一歩一歩が重く、もう最期だ。これで最期なんだ、と思っていたのに……。帰りの電車の中で1人、数時間前の俺を嘲笑う。あの絶望感は何だったんだろう。
随分狭い世界にいたんだと、少しスッキリした気分になった。家に着くまでの間、電車の窓から見える山に沈む夕陽や夏の黄昏時を楽しんだ。

ここか……?せっかく温泉の割引チケットをもらい、久々の遠出ということもあり、思い切って3泊することにした。仕事で休めないと思い込みずっと休みをとっていなかったが、休めないと決めつけていたのは自分だった。本当は忙しい中休むことで、申し訳ないという罪悪感や周りから嫌味を言われるのが嫌で、「休んではいけない」という自分のルールが出来上がっていたことに気がついていなかった。勿論周囲から何か言われるのは怖いが、自分が限界を超えたことで、心を壊れる前に守ることのほうが何倍も大事だと理解した。心身ともに限界が超えているのに、休んだら嫌味を言われる会社なんてこっちから願い下げだ、と今は自分の信念を持ってそう言える。どん底を経験した人間は強い。
いつか読んだ本を思い出し、その言葉を実感した。ちなみにあれから会社は行っていない。旅行が終わったあと退職願を出す予定だ。
彼から貰った温泉チケットが使える湯屋は、宿にもなっていて中々の老舗だった。映画の舞台になりそうな洗練された雰囲気で、ゆっくりするにはちょうど良さそうだった。
宿にチェックインし部屋で一息つくと、備え付けのお茶を飲みながらスマホを開き、彼に教えてもらった住所を確認する。
この宿から徒歩だと15分くらいだろうか。そう遠くはなさそうだ。本当はこのチケットは彼が使う予定だったのだろうか。彼女に会いに行くためにわざわざ買ったものなのでは……?と、不確かな推測が頭を過るが、深入りはしない方がいいか、と頭を振り思考を取り払う。それより今は観光楽しもうと切り替え、着替えを持って1階の温泉へと向かった。
その日は久しぶりの旅の疲れを癒して過ごすことができた。

翌日、彼は朝食を楽しむのもそこそこに、朝早くから旅館を出て目的地へと向かった。昨日温泉に浸かったおかげか、夜はぐっすりと眠れた。夏の終わりの朝は風も心地よく、日常から切り離された空間に入り込んだような錯覚に陥る。人も少なく、まるで自分しかいない世界のようで心が弾んだ。チケットをくれた彼に感謝しつつ、肝心の指輪の入った手紙を渡さなければ、と目的地を探す。
観光地となっている古い町並みを30分程歩くと、住宅街に差しかかった。坂道を上りいくつかの角を曲がると、手紙の住所の家を見つけることができた。随分道が入り組んでおり、想定より随分時間がかかった。これは紙の地図だけでは辿り着くのはむずかしかっただろう。現代の技術に感謝した。

着いたばかりだからか、見ず知らずの他人と会うからなのか、心臓の音が煩く音を立てる。微かに震える指先で家の前のインターフォンを押した。2、3度深く息を吐き出した時、インターフォンから声が聞こえてきた。
「はい。どちら様でしょうか?」
「あっ……あの、ある男性から、彼女さんへの手紙を預かった者で……!この封筒に見覚えないでしょうか……?」
彼が彼女から貰ったレターセットの手紙を、インターフォンのカメラに向ける。
「えっ……!」
その声がしたと同時にインターフォンが切れ、騒がしい足音が近づいて来た。程なくドアの施錠が解除される音と共にドアが開く。
「……。確かにそれは私が彼に贈ったものです。その文字も……確かに彼の文字です!あ、あの、貴方はどういうご関係の方ですか!?」
彼女は無言で手紙を凝視したあと、徐々に冷静さを欠いたように言葉をまくしたてる。
「あ、いや、俺は……その、偶然知り合った者で、貴方の彼氏さんのことは、深くは知らないんです。ただ、この手紙をあなたに渡すようにお願いされまして……凄く必死だったので。」
「……またこの文字を見られるなんて……。あの人が死んでから明日で丸二年なんです。」
俺は目の前の彼女が言っていることが理解できなかった。目を見開いている俺を余所に、彼女は言葉を続けた。
「正確に言うと、行方不明になってから二年なんです。一年経っても見つからなくて、警察には捜索届を出してずっと探してもらっているんですが、手がかりがなくて……。私、彼女なのに彼のこと、全然分かってなかったんだって……。」
彼女の流れる涙は止まらず、玄関前のコンクリートに染みを広げる。
広がっていく染みを見つめながら俺は呆然とする。二年前に死んだなら彼は一体何だったのだろうか。
彼女さんに、彼にはつい最近会って、この手紙と指輪を渡されたことを伝える。
取り乱す彼女さん。頼むからそこへ連れて行ってくれと懇願される。俺は後日必ず案内すると連絡先を渡し、彼女さんの電話番号を電話帳に登録した。その間にも涙を溢れさせ崩れ落ちる彼女を前に、俺はただ肩に手を添えることしか出来なかった。

それから3週間後、森で出会った彼の彼女さんと、彼と出会った森へ向かった。彼がもう来ないでくれと言っていたことは彼女さんにも伝えていたが、それでも行くと言って聞かなかった。気持ちは分かる。俺ももう一度彼にお礼を伝えに森へ行きたい。だから俺も付き添いで行くことにした。

初めてこの森に来たとき、青々と茂る木々に清々しさを感じたこの森も、少し黄色や橙で色づき始めていた。
もうすぐ秋が来る。

その森がある街には、一度二人で旅行に来たことがある場所だったらしい。
彼と出会った場所は確か、この辺だっただろうか……。
見覚えのある切り株が見えた。よく見ると切り株の上に何か平たい石が置かれている。
思わず切り株に駆け寄り石を手に取ると、そこには『ありがとう』の文字。彼が、無茶な頼みをきいた俺に、そしてここに来てくれた彼女さんに宛てたものであるように思えた。ありがとうの下にも何か文字が書かれていたようだが、断片的に『も××××』のみ見えるだけで、あとは石で削られた形跡があり読めそうにない。『もう大丈夫』とでも言いたかったのだろうか。今まで辛かったことを隠すために、わざわざ消したのかもしれない。
彼女へ宛てた手紙には、彼の苦しさの中で藻掻きながら闘った様子が細かに綴られていた。
森に来てから書いたのだろうか、少し文字も歪んでいた。会社で上司から強く当たられていること、人よりも全然仕事ができていないこと、君のことを大事にしたいし結婚したいと考えていること。でもこんな自分と一緒にいることで不幸になるのではないか、だからいなくなった方がいいのではないか……。優しく不器用な人柄が、文面からも伝わってくる。
きっと誰にも相談できずに心を病んでしまったのだろう。しかし、最後の文は、「それでも、やっぱり君といたい。だから君の元に帰ることにした。こんな俺だけど、これからも一緒にいてくれるかな。本当に愛しています。」と締めくくられていた。
遺書にする手紙を書くうちに、死にたいよりも、彼女への気持ちが勝ったんだ。生きようと思っていたんだ。彼は最期まで生きることを諦めていなかった。でもこの手紙を渡せずにここで亡くなってしまった。
初めてここへ来たときには気が付かなかった。切り株の上に伸びている太い木の枝には、ボロボロのロープがかかっていた。
ここで彼はまた一人葛藤していたのだろう。そしてやはり止めて帰ろうとしたが、日が落ちた森の中で迷ったか、帰れなくなりこの森で命を落としたのかもしれない。
俺と彼女さんは街で買った花を切り株の上の石と並べて置き、静かに手を合わせた。
誰にも知られず、無念な死だっただろう。だから二年経っても成仏できず、誰かが来るのを待ってたんだ。彼はきっと俺が死ぬためにあの森に来たことは分かって話しかけてきたんだろう。その上で、まだ死ぬのは早いと、少しでも元気づけようとしてくれたのかもしれない。今となっては分からないが、俺の心は確かに彼に救われた。

翌朝、俺は新しい職場のセキュリティカードを鞄に入れ、駅へと向かう。

息は白く、随分風も冷たくなった。日の短くなった空はまだ月が輝いている。以前の職場で働いているときから何度も見た、刺すような光を放つ月が、今では自分の心を照らしてくれる温かい存在へと変わっていた。

俺の心に光をくれた彼に、また手を合わせに行こう。
またあの森へ行こう。
そう決めて、俺は今日も空を見上げる。

数ヶ月後、ロープのあった切り株から少し離れた崖下で、捜索隊員の一人が人間の骨を見つけた。発見当時、人骨は何故かバラバラになっていた。司法解剖により身元も確認されたが、足を踏み外したであろう崖もバラバラになるほどの高さはなく、何故遺体がバラバラで発見されたのかは分からなかった。
発見した捜索隊員によると、見つかった骨は頭と肘から手の部分のみで、頭蓋骨は割れ、口は大きく開いていたようだ。手は、まるで助けてくれと何かに縋るように上に突き出ていたらしい。

死の間際、彼の身に何があったのか、誰も知る由もない。

―― もう来るな。来てはいけない。ここにはバケモノが棲んでいる……。 ――

〜完〜


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