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短編小説|不器用な恋とカシス味のチョコレート

「……っ」

気づけば、朝だった。


痛む頭を押さえる。完全な二日酔い。昨夜どうやって家に帰ってきたのかもわからない。

体をゆっくりと起こし視線を下ろす。昨日着ていた服だった。お気に入りのブラウスもスカートもしわだらけになっている。

なんとか家に帰れただけでもよかったと言うべきなんだろうか。

そっと頬に手を当てると、ファンデーションのざらついた感触がした。予想通り、化粧も落とさずに寝ていたらしい。


「はあ……」


鏡に映るひどい顔を想像するだけで、ため息が漏れる。

ズキンッとまた頭の奥が痛んだ。

と同時に、お酒とともに流し込んだはずのものが込み上げてきそうな感覚に襲われ、私はぎゅっと胸を押さえる。

切り替えるように頭を振り、深い息を吐き出して、顔を上げる。

カーテンの閉まっていない窓から差し込む朝日が眩しい。

徐々に記憶が蘇ってくる。



私のことを心配した友人が飲もうよと誘ってくれたのが、昨夜のことだ。

行く気にならなかったけど、強引に連れ出され、飲みはじめると、止める友人の言葉も聞かず、自ら次から次とお酒をあおってしまった。

その後、お店の前でタクシーを拾って別れたところで記憶は途切れている。

ブルルッ、とスマホが震えた。


『おはよ。体調大丈夫?』


昨日一緒に飲んだ友人からのメッセージ。そのあとに続くのは、強引に誘ってごめんという言葉だった。

彼女のやさしさが身に沁みる。

大丈夫、と返信する。



でも本当は全然大丈夫じゃない。

唇を噛みしめる。震える指先をなんとか堪えようと、ぎゅっと体を抱き込む。いっそこの思いも記憶も、ぜんぶなくなればいい。

一方で、そんな都合のいいことが起こるわけないと冷静に判断する自分がいる。

こういうところがだめだったんだろうか。泣いてすがればよかった? いやだと、別れたくないと人目もはばからず声を荒げればよかったの?


──五年付き合った彼は、とても不器用な人だった。

少し口下手で、デートで格好つけようとおしゃれなお店へ行こうとすれば、お店が休みだったり、プレゼントしてくれた指輪はサイズが合わなかったり、仕事が忙しいのを無理して約束して結局ドタキャンしたり、数え上げればきりがない。

彼はそんな自分の不器用さを恥じていたけど、わたしはその不器用さがとても好きだった。

彼がわたしのためにがんばろうとしてくれたことが、素直にうれしかった。

ひとつ思い出を取り出すと、ほどける毛糸みたいに次から次に勝手に記憶が呼び起こされる。

もっと伝えればよかった……?

不器用なところが好きだったと。はにかみながらも微笑む顔が、大きくて温かい手が、触ると意外に柔らかいくせ毛が、ぜんぶ愛おしく思っていたと……。

でも彼はそうではなかったんだろう。

わたしの生真面目さ、隙のなさ、なかなか素直にならないところが、だんだんと窮屈に感じるようになった。もっと甘えてくれる可愛げが欲しかった。そう言われた。


「なんで……っ」


嗚咽が漏れる。

時間は戻らない。もうあのころには戻れない。

いいところだけを見て欲しくて、わがままを言って困らせたくなくて、そうして自分を装っていたことが結果として、彼の心を離れさせてしまった。


私はズルズルと起き上がると、冷えたフローリングを進み、キャビネットの上に置いてある紙袋に手を伸ばす。

ぎゅっと力一杯握りしめると、勢いよく振り上げた。

壁に叩きつけてやるつもりだった。

でもできなかった……。



しばらくしてから、だらりと腕を下ろし、紙袋の中からきれいにラッピングされた四角い箱を取り出す。

くるりと巻かれた光沢のある赤色のサテンリボンをほどき、箱を開ける。

六つの仕切りにひとつひとつ品良くおさまっているのは、色や形が違う宝石のように輝くチョコレートだ。

おいしいと評判のチョコレート専門店のもので、並んで買ったのは五日前のこと。しかしもうずいぶん昔のように感じてしまう。

甘いものが好きな彼に喜んで欲しくて、いろいろとリサーチして選んだお店だった。

これを買ったときの私は、うれしそうに食べる彼の顔だけを思い浮かべていた。



ふっと、苦笑いを浮かべたあとで、私はチョコレートのひとつをつまみ上げ、無造作に口へ放り込む。

上質なショコラの甘さとほろ苦さが口いっぱいに広がる。

その芳醇な余韻を味わうこともなく、すぐに次のひと口を頬張る。

バニラ風味のムースのまろやかさが舌の上で転がる。

いつの間にか涙が頬を伝っていた。



またひとつ、チョコレートを口に入れる。

カカオビターの苦味と香ばしいナッツの深い味わいが絶妙だった。

もぐもぐと口を動かしながら、瞳からはぽろぽろと涙をこぼす。



ひとつ、またひとつ、そして最後のひとつを口に含む。

甘いショコラの中からとろけ出てきたのは、甘酸っぱい爽やかさが後を引くカシスピューレだった。


「おいしい……」


ぐしゃぐしゃの顔にぐずぐずの鼻詰まり声。

カシスの爽やかな酸味がわずかに私の中を通り抜けた。


*最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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