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【エッセイ】好きを伝える、感想を伝える。それが、ものすごく苦手で

私は○○が好き、と公言する。
この作品は○○だと感じる、と表明する。
これが苦手。ものすごく。

通っている小説教室で、提出作品の感想を述べる時、動悸が激しくなる。誰かが「嫌いだ」と評した作品を「好きだ」と感じる時、自分の感性は大丈夫なのかなと疑う。
軸がぶれる。いや、最初から軸などないのではとうろたえる。

私は恐れているんだな。きっと。
くだらない人間だと思われるのが。
意図を読み取れず、浅くてバカ者だと嘲笑われるのが。

「は? どうしてこれが面白いなんて言えんの! ダサっ」
「くだらん」
「怖い人だね。そんな風に感じるなんて」
「……(黙って電話を切る)」

ずっとずっと昔に、誰かから返されたそれらの反応に、割とちゃんと傷ついていて、20年、30年過ぎても、それらを引き摺って歩いている。
私が言葉を発することで、誰かを不快にさせたり傷つけたりするのかも。
あぁ、ザワザワする。ハラハラする。
私の動悸は、かつての私が鳴らす非常ベルだ。
だから、私の口はどんどん重くなる。

でも…… ま、重くてもいいか。
年齢とは有り難いもので、くよくよしても考え過ぎても物事はなにも動かせないことを、もう私は知っている。

今や「おたく」や「推し活」が、堂々と大手を振って歩ける時代。
誰かの「好き」が、その人やその周囲を満たし明るく照らしている。
SNSは拡がり、「好き」同志のコミュニティがつくられ、あらゆる作品の感想だって自由に表明できるし共有もできる。
ひとりが好きなら、暗がりが好きなら、それも良しの土壌もある。

「好き」や「こう感じる」を表明することは、リスクを伴う。
思いがけない反応や、ちょっとした行き違いが火種になり、火の手が上がる時もある。けれど、そもそもコミュニケーションなんてそんなものだ。
火災現場にわざわざ行かない。離れる。逃げる。安全を確保する。
それさえできれば、表明することは思った以上に楽しいし、日々の彩りをより鮮やかにしてくれる。

苦手は、どうしたって一足飛びに「得意」にはならない。
ならば苦手であることを受け入れて、誠実に向き合って行くしかないのではと思う。
(別に、わざわざ表明しなくてもいいじゃん)
私の中の私が、斜に構えてそう言うけれど、どうやら私は「好き」を公言したいし「こう思う」を誰かに伝えたいと、切実に願っているらしい。
たぶん、幼い頃からずっと。

丁寧に向き合い、深く感じて、軽やかに表明する。
よし、これで行こう。







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