「文章」という「鏡」に映るもの
シゲクです。
昨日公開した「いつも「成果」は遅れてやってくる」は、「ビュー」「スキ」共にご好評いただいております。いつもありがとうございます。
「note」「Twitter」で毎日様々な記事やツイートを読んでいると、「文章」は「鏡」のようなものであることを感じさせられます。
「文章」はただ文字が並んでいるというだけのものですが、書き手と読み手が変われば映り込んでくるものが変わり、読み手がいつ読んだかということによっても映るものが変わります。
書き手が「鏡」に映そうとしたものと、読み手が「鏡」の中で見たものが全く違うということもしばしば起こることです。
書き手が「鏡」に映そうとしたものが、読み手が「鏡」の中ですべて正確に見えることはほとんどありません。全く違うものが見えているか、ぼんやりとしたものかもしれません。
恐ろしいことに、書き手だった人が自分で書いた「文章」の読み手に回ると「鏡」の中に見えるものが全く違うということも起こります。
「この時の自分は何を書こうとしていたのか」と思ってしまうことも、年月が経ってからもう一度自分が書いた「文章」を読む時には良く起こることです。
「自分はいつでも同じように同じ文章を書くことが出来る」という気持ちはあまり「文章」を書いていない人が思うことであり、毎日のように「文章」を書いている人であれば「二度と同じ文章を書くことは出来ない」ことに気付くと思います。
今この記事を書いている私が、同じテーマで記事を書いたとしても明日には違う「文章」になっていると思います。
それでも、自分が作った「文章」にどんなものが映る「鏡」にしようとするかはその人の意思です。良いものを映そうとする「鏡」にするか悪いものを映そうとする「鏡」にするかは、その人次第でもあります。
私はなるべく読み手にとって良いものが映る「鏡」になるように書き手として毎日「文章」を書き続けています。読み手としても「文章」という「鏡」にどんなものが映っているのかを見続けています。
これからも良い「文章」という「鏡」が出来るように活動し続けていきたいものです。
今日は、この辺で失礼します。