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3-2 ミッション②「理系SE女子、限界を認識せよ

 首都圏という都会の暮らしは、それなりに楽しかった。時には平日に有給を取り、友達とネズミの夢の国へ遊びに行くこともあった。「来週、休み取れるんだけど、行く?」なんて気軽に遊びに行けることは、地方からすれば夢のようなこと。子どもの時はネズミの国に行くなんて、宿泊を伴う一大イベント。それが、首都圏の女子高生は、「もうランド飽きたよねー。今度はシー行こうねー」とだるそうに電車の中で会話しているのだ。アンビリーバボー、首都圏。

 しかし、私はいつまで経っても、「おのぼりさん」だった。決して「溶け込んで」はいなかった。「おのぼりさん」は時々で、遊びだから楽しいのであって、毎日そこで生活するのは、神経が敏感な私には、かなり厳しいことだった。今にして思えば。


 仕事も、それなりに楽しかった。プログラミングの経験ゼロで入社したため、できる仕事はかなり限られていたが、自分が関わったシステムがリリースされると、心ひそかに嬉しかった。私も社会の役に立っていると感じられて。体調不良を理由に本社へ呼び戻され、私の面倒を見てくれることになった男性上司は、不器用な私にかなり根気強く付き合ってくれた。資料作りだけでも、「フォントひとつで見やすさが変わる。フォントまでこだわれ」「マウスに手を持っていくな。作業スピードが落ちる。キーボードのショートカットキーを覚えろ」と指導してくれた。厳しかったけれど、愛が感じられ、私は必死に仕事を覚えていった。時には徹夜の作業もあったけれど、「仕事してる」という感じがして、楽しかった(徹夜が時々のチームだったからそう思えたのだが)。

 とある会社のシステム開発に携わった時、リリースが終わってもうすぐ撤退するというので片づけていたら、担当の人と会議を終えてきた上司に「『次回もご縁がありましたら、Kさん(←私の旧姓)にもお願いしたいです』って言ってたぞ」と言われた。それを聞いて、涙が出そうになった(社交辞令だったかもしれないけど)。コピーした資料を配ったりするくらいで、いつも上司の背中に隠れるしかなかった新人の私のことも見ていてくださって、その努力を評価してもらえたと思うと、月並みな表現だが、「この仕事していて良かった」と思えた。


 それなりに楽しい都会。それなりに充実感のある仕事。もし、私が遠距離恋愛などせず、完全な独り身で、お盆と年末年始に帰省する以外は地方に行かない生活をしていたら、多分そのまま仕事を続け、それなりのポジションに就き、それなりの人生を送っていただろう。

 しかし、私には北の大地に生息する彼氏がいた。その彼氏に会うために、時折北の大地に行っていた。そこで私は、「なんだかよく分からない、とてつもない安心感」に包まれていた。それは裏返せば、「都会生活への違和感」でもあった。

 私が社会人二年目になった時、彼氏は大学院博士課程を終え、就職活動をしていた。「就職したら、結婚しよう」という話には、どちらともなくなっていた。だが、あちらは博士課程まで出ているので、就職できる先が少ない。もしかしたら、縁もゆかりもない地方に就職が決まるかもしれない。そうなったら、どうする?いきなり別居婚か?

 私はなぜか小学生の頃から、女である自分がどことなく嫌で、「結婚して家庭に入って、家族の面倒だけみるなんて嫌。バリバリのキャリアウーマンになりたい」とずっと思っていた。それは就職活動をしている時もそうだったし、新人研修の時も「キャリアプラン」の話は耳をダンボにして聞いていた。

 でも、なぜか、「第一線で活躍したい」という気持ちは、いつの間にかなくなっていた。諦めたわけではない。ごく自然になくなっていたのだ。そして、私は、やはりごく自然に思った。「彼が就職したら、仕事辞めてついていこう」と。


 当時は自分でも心境の変化が不思議だったが、今にして思えば、色々な限界を感じていたのだろう。首都圏生活への適応の限界、忙しい仕事に対する自分の体の限界といった、個人的な限界。

 社会人二年目に突入した夏、私は原因不明の慢性頭痛に悩まされていた。それまでも、頭痛にはなりやすかったが、その時の頭痛は全く治まらなかったのだ。市販の鎮痛剤を飲んでは仕事し、効果が切れて痛くなってきたら、また薬を飲んで仕事をした。やがて、鎮痛剤は効かなくなり、24時間頭痛に襲われ続けた。吐き気がするほどで、パソコンのディスプレがギリギリ見える角度まで顔を上げ、吐くのをこらえながら私は仕事を続けた。「さすがにおかしい」と思って、脳神経科に行ってMRIまで撮ったが、異常なし。「単なる肩こりによる頭痛でしょう」と投げ出され、処方された湿布をせっせと肩や背中に貼ったが、改善する気配ゼロ。「通院しても無駄だ」と私は悟り、病院にも行かなくなった。

 それまでも、「西洋医学は万能」と思っていたわけではないが、初めて自分の体を持ってして、「西洋医学の限界」のようなものを体感した。別に「西洋医学が悪い」とは全く思っていないし、今も必要な時にはありがたく恩恵に預かっているのだが、とにかく「西洋医学」という「科学」とか「理論」とか理系の象徴のような存在に対して、私は「時にはできないこともある」と限界を感じたのだった。

 「病院や薬には頼れない」と悟った私は、結局、自分で自分を大事にして、自分で頭痛を治すしかなかった。仕事が終わったら即帰宅し、なるべく長く寝るようにした。ヨガの本を買ってきて、自宅でヨガに励んだ。そんな地味なことしかやりようがなかった。当時は、まだアロマとか代替療法を知らなかったし、とても正直なところを言ってしまえば、国家資格の鍼灸さえも眉唾物だと思っていた。

 結局、私にとって大きなストレスとなっていた社内イベントの仕事が終わったら、すーっと頭痛はなくなってしまったのだが、「私はこの仕事をずっと続けていくことはできない」と限界を感じた。育児と仕事の両立の難しさは女性先輩社員から耳にタコができるほど聞いていたので、「子どもが生まれたら、私はSEできないな」と思えた。


 それだけでなく、私はどことなく、右肩上がりの成長を目指す、現代の資本主義社会にも限界を感じていた。生意気かもしれないが、若気の至りもあり、「このままじゃだめだ。いつまでも右肩上がりの成長なんてできっこない」と思っていた。会社の報告会で、売り上げの伸びを自慢げに語ったり、伸びなかった場合は今後の展開のすばらしさを語ったりする各部の幹部たちを見ていると、何だか「ここは私のいる世界ではないのかもしれない」と思えた。別に右肩上がりの成長を目指すことが悪いことだとは、今でも思っていない。会社として、また責任あるポジションに就く幹部として、当然のことを目標にし、語ったまでだ。ただ、「私がやりたいことは、ここにはないかもしれない」とぼんやりと思い始めたのだ。私が目指したい世界は、ここではないどこかにある。


 就職してわずか2年弱だったが、いろいろな限界、特に自分に対する限界を感じ、「SEとして10年後どうなっていたいか、将来の自分像が全く描けない」と思い、私は寿退社を選んだ。旦那の就職先近くにたまたま支社があったので、そちらへの異動を打診され、留意してもらえること自体は私としては涙が出るほどありがたかったが、「今が潮時だ」と腹が決まっていて、辞退した。

 2年弱だった私のSE生活。「バリバリのキャリアウーマンになるかと思ってたのに。一番最初に辞めるなんて」と同期には驚かれたが、みんな温かく送り出してくれた。今でも、主にSNSを通じてだが、当時の同期とは付き合いがある。


 寿退職を決意し、「でも、何か仕事したいし、資格でも取ろうかなぁ」とのんきに考えていたある日、私は買い物に行き、本屋で立ち止まった。そして、ぱっと目についた「アロマテラピー」の本をレジに持っていった。なぜアロマの本を選んだのか、今でも理由は説明できない。「なんとなく」としかいいようがない。

 この一冊のアロマテラピーの本が、その後、私を「見えない世界」へと大きく舵を切らせるきっかけになることは、当時知る由もなかった。

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