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【新刊試し読み】 『週末の縄文人』|週末縄文人 縄・文

YouTubeで登録者数10万人を誇る週末縄文人 縄・文。お二人の初の著書『週末の縄文人』が2023年8月25日(金)に発売されたことを記念して本文の一部を公開いたします。


本書について

YouTube登録者数10万人超を誇る、週末縄文人初の著書。
ビジネススーツを身にまとい、石斧を作り、土器で煮炊きし、竪穴住居で過ごす……。
サラリーマン2人組が、現代の道具を一切使わず、「週末限定の縄文時代」を生き抜く過程を描くサバイバル・エッセイ。
カラー写真満載。土器や石斧の作り方がわかるコラムも充実!

「映像研には手を出すな!」著者、大童澄瞳氏推薦!
─4歳頃、一人で磨製石器を作っていた。何日も何日も石を削った私は「この石は“刃物“にならない」と結論を出した。「週末縄文人」は言う。「もっと削れ」。


試し読み

2章 石斧に宿った魔力


現代の悲しき偏執狂
 みんな何かしらの生きづらさを抱えていると思うが、僕もご多分に漏れずその一人である。一番はやはり、この偏執狂的な性格だろう。昔から一つのことに集中すると、自分だけが泡の中にいるように、周囲の音がまったく聞こえなくなるのだ。
 新入社員時代、自分の業務に集中していると、新人が率先して出るべき電話の音にすぐに気づけず、先輩が先に出て気まずい空気になることがよくあった。
 学生時代、授業中に友人のゴリから借りたちょっとエッチな漫画をこっそり読んでいたときもそうだ。先生に何度も指名されているのに気づかず、あわてて机の中に隠すも時すでに遅し。あとで借りる予定だった友人たちからの大バッシングの中、没収された漫画を奪還すべく、職員室に忍び込むはめになった。
 後者に関してはただの変態だったという可能性もあるが、ともかく、この性格にはほとほと困らされてきた。しかし、そんな僕の偏執狂的性格が、生まれてはじめて光り輝いた瞬間があった。それは、週末縄文人を始めた最初の秋のことだった。

石斧がほしい!
 そのころ、僕らは石斧の必要性をひしひしと感じていた。これから文明を発展させていくには木がたくさん必要で、ハンドアックスではとてもまかないきれないと思ったからだ。
 ハンドアックスは、人類がものを切るために発明した最も原始的な道具である。まあ、現代人の感覚からしたら道具というより、エッジが鋭いただの石なのだが、これがとにかく切りづらい。
 一度直径、10cm の木を切ろうとして、数分経ったところで諦めたことがあった。石を手で握るため、切るときの反動が手首や肘にモロに伝わり、途中から痛みと痺れで力が入らなくなってくるのだ。木にはわずか1センチ弱の傷がついただけ。これには愕然とした。
 直径4cm ほどの細い木は切れたが、それにも1時間近くかかってしまった。これでは人生がいくつあっても足りない。そんなわけで、僕らの縄文生活の行く末は、石斧を作ることができるかどうかにかかっていた。


斧には斧の石がある

 まずは縄文人が使っていた本物の石斧を見てみようということで、長野県にある井戸尻考古館に行ってみた。こちらの学芸員は研究だけでなく、実際に石斧や土器作りなどを実践し、縄文人の“ 心” に迫ろうとしている全国的にも珍しい博物館だ。
 展示ケースに並べられていた石斧の刃は、どれも美しく滑らかな流線型で、キューバで走っているレトロなアメ車みたいだと思った。 色は緑が多く、グレーや黒っぽいものもあった。
 これらは「磨製石斧ませいせきふ」という石斧で、縄文時代から作られるようになったものらしい。最大の特徴は、石の刃が鋭く磨かれているところ。それ以前の「打製石斧」は、石を叩き割って鋭くしていたので、刃先が凸凹していて荒々しかった。磨製石斧は刃先が鋭く一直線で、切れ味も格段に上だという。僕らが初めて作る石斧は、「磨製石斧」に決まった。
 展示されていた磨製石斧には、「蛇紋岩」と書いてあった。ジャモンガン・・・怪物みたいな響きでカッコいい。色は黒に近い深い緑で、ぬらっとした光沢感があった。とりあえずこの蛇紋岩を見つければ磨製石斧ができるはずだと思い、忘れないように色や形をよく見て頭に刻んだ。石の種類なんてほとんど知らなかった僕が、初めて覚えた石になった。
 河原に行くと、いろいろな石があった。その中を「ジャモンガン、ジャモンガン」と馬鹿の一つ覚えで、くり返し唱えながら探すのだが、これがなかなか見つからない。博物館で見た蛇紋岩はツルツルに磨かれていたのに対し、足元に転がっている原石はゴツゴツのザラザラで、一つも博物館にあった石と同じに見えないのだ。しかも、よく見れば見るほど色のグラデーションが無限にあることがわかり、一つ一つすべてが違う石に見えてくる。思わず縄と顔を見合わせて、「石むずっ!」と叫んだ。
 後日、地質学に詳しい縄の後輩にこの話をしたら、「そりゃあ専門家でもパッと見て種類を正確に特定するのは難しいですよ〜」と教えてくれた。どうやら同じ種類の石でさえも、色や模様が違うことが平気であるらしい。素人にはむずいわけだ。


 ところが、このときの僕は運がよかった。薄い緑色で、なんとなくジャモンガンっぽいなと思って拾った石が、実は磨製石斧にぴったりの石だったのだ。あとで調べてわかったのだ
が、これは蛇紋岩ではなく、緑色凝灰岩りょくしょくぎょうかいがんという火山灰由来の岩石で、なんとこれも蛇紋岩同様に、縄文人が石斧の材
料として使っていた石だった。まったくミラクルとしか言いようがない。
 そんなこととはつゆ知らず、縄のところへジャモンガンモドキを持っていくと、彼もいい石を見つけたと見せてくれた。それは真っ黒な平べったい石で、すでに石斧のような形をして
いた。
縄「おーそれジャモンガンじゃね!? いいじゃん!」
文「そうだよね!? その石もほとんど石斧として完成してるじゃん!」
 お互いに見つけた石を過剰に褒め合うことで、自信のなさをなんとか埋めようとする。この縄文活動でよく見られる行為である。こうしていつものように互いを鼓舞したあと、いよいよ石を加工すべく、河原をあとにした。


石に名前をつける

 拠点の山へと戻る道中、僕は石の名前について考えていた。河原にあった無数の石にそれぞれ違う顔があることに気づいたが、その中で正式な名前を知っているものは一つもなかっ
たからだ。気になってスマートフォンで検索してみると、「火山岩」や「砂岩」といった、石の成り立ちや特徴を表す学名がたくさん出てきた。興味深くはあったけど、それらは僕にとっ
てほとんど役に立たない情報のように思えた。僕にとって大事なのは、それが石斧になるか否かということ。そして、そんなことは、石の学名からは決して伺い知ることができないこと
なのだった。
 そんな話を縄にしたら、民俗学が好きな彼がおもしろいことを教えてくれた。自然とともに生きていたアイヌ民族の言葉の中には、実用性に基づいて名付けられた自然の物がたくさんある
というのだ。調べてみると、たとえばオヒョウニレという落葉樹がそうだった。アイヌ語では《アッニ》と名付けられているそうだが、この《アッニ》は「繊維を取る木」を意味するらしく、アイヌの代表的な衣服《アットゥシ(樹皮衣)》の材料となる。彼らにとっては科学的な分類よりも、それがどう生活に活かされ
るのか、の方が重要だったのだろう。
 想像するに、縄文人も森羅万象に対し、このような名付け方をしていたのではないだろうか。僕が見つけた「 緑色凝灰岩」や「蛇紋岩」、その他石斧になりそうな緑っぽい石を、すべてまとめて「斧の石」というような名前で呼んでいたかもしれない。僕たちふたりの間でも、これから様々な石や木に、暮らしの必要に基づいた名前を付けていけたら素敵だなと思った。
 まずは石斧になりそうなこの石のことを、便宜的に「ジャモンガン」と呼ぶのはやめて、「オッノ」とでも呼んでみようか。名前をつけると不思議なもので、拾ってきたばかりの石なのに、たちまち愛着が湧いてきた。

石の機嫌を伺う
 山へ戻った僕らは、早速オッノの加工を始めた。キューバのアメ車のような形に近づけるべく、まずは余計な部分をなくすため、別の石で叩いて削ることにした。二人で並んで地面に座り、無言で石を叩く。
カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ……。
 季節はもう冬に入っていた。僕らの活動場所は標高が高く、森にはうっすらと雪が積もっていた。静かに澄んだ空気の中を、石がぶつかる音は凛と響き渡り、やがて白い景色の中へ吸い込まれていく。それが心地よくて、僕はただ無心で石を叩き続けた。もしかしたら木々や鳥たちも、縄文時代のリズムを懐かしく聴いているかもしれない。真っ白な世界は、そんな想像をも膨らませる。


 このとき、僕の中の偏執狂がむくむくと目を覚ましつつあった。しかし、作業を始めて1時間ほどが経ったとき、突如縄の叫び声で我に返った。
縄「あーーーーーー!!」
文「え、どうした!
縄「…………」
 沈黙したまま、しばらく固まる縄。その手の中には、真ん中で二つに割れた黒いオッノがあった。こうなってしまったら手の施しようがない。「どうして……」そう呟くと、縄はそのまま雪の中に倒れた。かわいそうに、彼の心は石と一緒にポッキリと折れてしまったようだった。叩く位置や力加減を誤ると、それまでの努力が一瞬にして無に帰してしまう。石器作りの恐ろしさを知った瞬間だった。
 縄の失敗を経て、僕は石の異変を少しも見逃すまいと全神経を集中させた。すると、今まで気づかなかったことに、耳が気づいた。石を叩く位置を少しずつずらしていくと、こんな風に音が変わることがあるのだ。
カチ、カチ、カチ、“ コチ”。
「カチ」っと響くのが通常の音であるのに対し、最後の「コチ」は、くぐもっていて反響しない。どこか不穏な感じがしてその位置をよく見てみると、なんと小さなヒビが入っていた。この音は、「もうそこの箇所を叩いてはいけないよ」と教えてくれる石の声だったのだ。 
 ああ、僕の理想の形に当てはめようとしてはいけないのだなと思った。ちゃんと石の声を聞き、「どんな形ならなれるのか」を知って、こちらの理想との間にあるはずの妥協点を探っ
ていかなければならないのだ。
 それからというもの、石を叩くたびに、僕と石との間で、絶え間ない対話が積み重ねられていった。気温は一桁台なのに、緊張で背中はじんわり湿っていた。そうして石の機嫌を伺いながら叩くこと2時間。完璧ではないが、なんとか割れることなく、大まかな形が整った。それは、僕と石との対話の末の、美しき妥協点だった。

石に宿った魔力
 残るは最も大事な作業、「磨き」だ。川で拾った大きくて平らなザラザラした石(砂岩)を地面に置き、砥石にしてオッノを磨いていく。包丁を研ぐのと同じように、オッノに水をか
けながら、手前から奥へと研磨していく。結果から言うと、この単純作業になんと20時間も費やすことになった。そしてここにきてようやく、僕の“ 偏執狂的性格” が本領を発揮す
るのである。
 意気揚々と磨き始めると、すぐに石の内側からベトベトする泥のようなものが湧いて出てきた。これはオッノが削れて粉状になったものと水が合わさってできた、研ぎ汁のようなも
のだ。これが出ているということは、石は順調に磨り減っているということ。よしよし。
 ふと思う。ここに溶け出した石の分子は、一体どれだけ長い年月この石の中に閉じ込められていたのだろうか。分子は色々なものに形を変えながら旅をする。さっきまでこの石の一部だった分子は、何千万、へたしたら何億年という時を経て、再び旅に出たのだ。僕は研ぎ汁に向かって、ナウシカになった気分で「さあ、森へお帰り」とささやいた。いよいよ変態である。


 そんな遊びをしながら、はじめのうちは新鮮な作業を楽しんでいた僕だったが、1時間経ったころ心境に変化が訪れた。一生懸命研いだ部分が、たったの3ミリくらいしか減っていないのだ。研ぎ汁は結構な量が出ているのに、どう考えても計算が合わない。ふざけていやがる。日暮れも近く、寒さも厳しさを増していた。このペースでは磨製石斧が完成することなく週末が終わってしまいそうだ……。
 気持ちを切り替えるため、一度作業を中断し、縄と一緒に覚えたてのきりもみ式火起こしで焚き火をつけることにした。そして、ここから長い夜が始まった。
 すっかり暗くなった森の中で、焚き火の灯りだけが僕たちを橙色に照らしていた。再び磨き始めてから2時間、オッノには変化が現れ始めていた。磨いた部分がどんどん滑らかになり、鏡のように焚き火の炎を反射しだしたのだ。深さを増す緑色のそれはまるでエメラルドのようで、見ていると吸い込まれそうになる。磨けば磨くほど美しさを増していく石に、僕の偏執狂っぷりは爆発した。やばい、なんなんだこの快感は。これがトリップというやつなのか。もう磨くこと以外に何も考えられない。疲れも寒さも忘れ、「今、この瞬間に生きる」禅僧のような境地で磨き続けた。
 縄曰く、「あのときの文は完全に違う世界に入っちゃってた」とのこと。ちなみに彼はこの間、火を絶やさないように薪を集めてくべ続けてくれていたらしい。細かなところまでよく気がつく優しい男なのだ。
 そこからの記憶はあまりないが、たぶん夜中に縄がストップをかけてくれたのだと思う。6時間くらい座りっぱなしだったようで、首や足腰がバキバキに固まっていて痛かった。頭はぼーっとしていて、まだ緑の世界に陶酔していた。止められなければ、僕自身が石像になっていたかもしれない。
 作業は翌朝から再開して、ようやく終わったのは夕方前。磨き始めてから20時間が経過していた。できあがったオッノについた研ぎ汁を小川で洗い流すと、途端に全体が深い緑色に輝き、その魅惑的なオーラに思わず息を呑んだ。なんて美しいんだろう。これが本当にあの河原にあった石なのだろうか。形だって、あの夢にまで見たキューバのアメ車そのものではないか。この鋭い流線型なら、どんな木だって切れるに違いない。
 また、オッノには見た目の美しさだけではない、不思議な魅力があった。僕はそれを「魔力」と表現したのだが、縄にはいまひとつピンときていないようだった。自分はビシビシ感じるのに、それを共有できないもどかしさ…… 。一体どう言語化したらいいのだろうか。
 ただの石をここまで美しく磨き上げた誇らしさもあるが、それだけではない気がする。ずっと離さずに持っていたいという、ともすれば周りから引かれてしまうくらいの強烈な愛着。おそらく、注いだ時間の問題なのだ。極度の集中状態で石を磨き続けた20時間は、かなり大げさに言えば、僕の命を注ぎこんだ時間でもある。
 昔読んだ五木寛之の『燃える秋』という小説に、一枚のペルシャ絨毯はひとりの女の一生を吸い取って美しく織り上がる、というような文章があった。時間のかかり具合こそ違えど、僕の20時間分の全身全霊が閉じ込められたオッノは、まさに我が分身と言えるのかもしれない。
 そんな伝え方をすれば、縄にもわかってもらえるだろうか。いや、ピンとこないどころか、さらにドン引きされてしまうかもしれない。
 でも実はこの「魔力」を、縄文人たちも感じていた可能性が高い。というのも、この磨製石斧。実用の道具としてだけでなく、祭典や儀式にも使われていたというのだ。縄文人も磨製石斧の美しさに陶酔し、あの膨大な作業時間の中でトリップしていたのかもしれない。そして、自分自身の存在を石斧に投影することで、特別な価値を見出していたのではないだろうか。それを「呪術的」と言えばいいのか、「魔術的」と言えばいいのか僕にはわからないが、僕が感じた「魔力」みたいなものを彼らもきっと感じていた。そう思えてならない。


原始の斧 “ 磨製石斧” の完成
 最後の作業は、斧の「柄」作りだ。これもなかなか骨が折れた。そもそも、石斧の柄を作るのには木が必要なのに、その木を切るための石斧がないという矛盾! どうしようもないので、旧石器時代スタイルのハンドアックスで地道に切ることにした。この作業は、僕が石を磨いてる間に、縄がヘトヘトになりながらも1時間かけてやり遂げてくれた。
 切り倒した木を60センチほどの長さにして、腐りにくくするために樹皮をはぐ。最後に石をはめる部分に穴を開けるのだが、木の中心部はかなり硬く、熱い炭を置いて燃やしたり、尖っ
た石でぐりぐりほじったりして少しずつ掘っていった。そして作り始めて8時間、やっとの思いで柄ができた。
 恐る恐る磨いた石の刃をはめてみると・・・ぴったりだ! かっこいい、かっこいいぞ! まさに縄文人が持っていそうな、イメージ通りの石斧になった。使うときに石が落ちないよう、木の根っこを裂いて作ったヒモで石と柄を結びつけた。これにより、使用時の衝撃で柄が割れるのを防ぐこともできる。丸3日かけて、ようやく磨製石斧が完成した!

石斧で木を切るということ
早速、直径5センチほどの木を切ってみる。
ザク、ザク、ザク、ザク……。


 磨製石斧はハンドアックスとはまったく違う音を立てながら、木の繊維を断ち切っていく。これまでは繊維をゴツゴツと叩き潰していくイメージだったが、磨製石斧はちゃんと“ 切って” いる感覚だ。木はわずか10分弱で切り倒すことができた。ハンドアックスでは1時間かかっていたので、その6倍という脅威の速さに僕らは大興奮だった。
縄「これは革命だよ!」
文「最初に磨製石斧を使った縄文人もさぞ感動しただろう
ね!」
縄「ほんと文明の進歩ってすごいな!」
文「これで竪穴住居も作れるね!」
 1本の木を切ると、ほんの少しだけ刃先が丸くなり、刃こぼれしていた。焦って砥石で磨く。すると、あっという間に元どおりの切れ味に戻った。切るたびにこまめに磨く。なんだか職人みたいでかっこいい。愛着を持った道具を大切に使うという感覚は、普段の生活にはなく、なんだか尊い気分になる。
 磨製石斧は、効率よく木を手に入れられるというメリット以外にも、大切な気づきを与えてくれた。それは、木に対する「畏れ」の気持ちだ。春先の木は水分を多く吸い上げているので、石斧を振るごとに幹から水が吹き出し、まるで返り血を浴びているかのように顔にふりかかる。それを初めて感じたとき、僕はあまりの衝撃に思わず斧を振る手を止めた。木は僕ら人間となんら変わらない、「生きようとする強い意志」を持っていることに気づいたからだ。その点で、僕たちの命は同じ地平にあった。そのことに気づいた途端、木を切ることが恐ろしくなった。人はそれを「畏れ」と言っていたのかもしれない。


 「木を簡単に切ってはいけない」という主張は、現代においては生態系の保全や、CO2 の削減などのロジックでなされることが多いように思う。それは、僕の「切りたくない」とは根本的に違う。「今ここに在る命を簡単に奪いたくない」という、命そのものに対するデリカシーのような感覚である。これは直感的で、とても強い。自然との対話は、人間が全身全霊でぶつかっていく中でしか生まれないものなのかもしれない。石斧は、それを気づかせてくれる道具だった。



ー 2章 石斧に宿った魔力 より ー

目次

1章 原始の火には神様がいた
2章 石斧に宿った魔力
3章 “ヒモ”は原始の大発明
4章 縄文人が土器に縄文を付けたワケ
5章 竪穴住居から縄文の世界を覗き見る
実用コラム:火の起こし方/石斧の作り方/ヒモの撚り方/土器の作り方


著者紹介

  • 週末縄文人 縄・文
    週末縄文人(しゅうまつじょうもんじん)
    都会のサラリーマン2人が、週末を使って縄文生活をする様子をYouTubeで配信。「現代の道具を使わず、自然にあるものだけでゼロから文明を築くこと」を目的に、ライターを使わずに火を起こし、石を削り出した斧で木を切る。最終的には江戸時代まで文明を進めるのが夢。背が高いほうが「縄(じょう)」、がっしりしているほうが「文(もん)」。2人ともアラサー。
    縄(じょう)
    1991年秋田生まれ。大学時代にワンダーフォーゲル部に所属し、学生生活の多くの時間を山で過ごす。趣味は釣りと料理。好きな縄文活動はヒモ撚りと土器作り。
    文(もん)
    1992年東京生まれ。幼少期をアメリカ・ニュージャージー州やアラスカ州で過ごす。縄文時代に1つだけ持っていけるとしたら、アイスクリームを選ぶ。

関連サイト: https://www.youtube.com/@shumatsujomonjin


週末の縄文人
【判型】四六判
【ページ数】176ページ
【定価】本体価格1,760円(税込)
【ISBN】978-4-86311-375-6


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