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キャリア女子だった私が結婚・出産・子育てがもたらす葛藤と闘った10年を振り返る

こんにちは、Shaniです。
石川県金沢市に住む37歳です。
宿泊&飲食を営む会社の社長である夫&二人の子どもと暮らしています。

夫の起業をきっかけに東京から金沢へ移住し、夫婦で5年間やってきましたが、2020年11月末に夫の会社を退職しました。

このnoteでは、自己紹介を兼ねて、私の生い立ち、キャリア、そして家庭生活を通じて得た経験と価値観をまとめています。

はじめに:井の中の蛙が現実を知るまで

私は和歌山の小さな町で3人姉妹の末っ子として生まれ育ちました。
父は地方公務員で、ごく普通の家庭でした。
活発で目立ちたがりの私は生徒会長を率先してやるようなタイプで、
当時その地方では珍しく、中学受験をして私立進学校に進学しました。

田舎のほのぼの小学校とは全く違う、ゴリゴリの学力至上主義な校風に圧倒された私は、優等生にもなれず、品行方正でもなく、かと言って反体制に走る勇気もなく、ぎりぎり半分よりちょっと上くらいの成績をウロウロしつつ、教師の目を盗んで恋愛に精を出し(校則で男女交際禁止でした)、浮世離れした学校生活を6年間生き延び、某国立大学に滑り込みました。

大学には、中高よりも更に優秀で勉強熱心で成熟した学友があふれていました。
ますます圧倒されてしまった私は安住の地を求め、家に引きこもってオタク活動にいそしむ一方で、なお恋愛にのめり込みました。
年を追うごとに友人付き合いは減り、”オタクぼっち劣等生”の地位を確立しました。

「就活したくない」という理由のみで決めた大学院受験は当たり前ですが大敗。
進学も就職も決まらないまま卒業式を迎え、先の見通しが何もないくせにふわっと上京して、バイト情報誌で見つけた小さな会社に就職しました。

そうやって、一瞬は神童とも思われていたはずの幼少時代から順調に(?)人生の雲行きがおかしくなっていったわけですが、学歴を唯一の切り札として2009年(26歳)にDeNAに転職し、ようやく「軌道修正」に向かった...かのように見えました。

華やかな舞台から金沢へ下る

話は少し遡りますが、私は夫と24歳の時に出会い、28歳で結婚、29歳の時に第一子、31歳の時に第二子が誕生しました。

当時、夫は某ホテル運営会社で海外営業をしていました。
典型的な都会のDEWKS(子持ち共働き夫婦)でした。

私は先述したようにネットベンチャー企業であるDeNAで働いていました。
一人ひとりが高い意識で目標に向かっている環境は私にとって新鮮で刺激的でした。
それまで勉強は頑張れなかった人生だったけど、ビジネスは頑張れる気がしました。
仕事は激務でしたが2回の育休を挟みつつ私なりに一生懸命に働いていました。

そんな時に夫が突然、脱サラして金沢でゲストハウスを開業すると言い出しました。

自分軸から家族軸への思考変化

唐突な夫の脱サラ話に当初は反対しつつも、最終的には金沢への移住を決めました。
そしてこの決断は、やっと手に入れたステータスや高い収入を失うことを意味しました。

小さい頃から「頭のいい子」というポジションで生きてきて、かと言って秀才の王道を歩む努力ができなかった半端者の私が、当時なんとか辿り着いた場所がDeNAでした。
けれども実際は、働き続ける中で自分の中で違和感が徐々に大きくなっていたのです。
社風や同僚のことは好きでも、肝心の事業に心から取り組む情熱がありませんでした。本気で仕事に打ち込めないから勉強しないし成長もしない、当然成果も出せない、という日々だったのです。
このまま分不相応の会社にしがみついてもいずれお役御免になることは見えています。
と言って他にやりたい事もなかった私は、自分が何をしたいかではなく、家族のためにどうするのがいいか、という判断軸に切り替え、金沢への移住を決めたのでした。

その判断の背景には、0歳と2歳相手のストレスフルな育児生活の中で、徐々にエゴを手放すようになった思考の変化も影響していたと思います。
自分の趣味やひとり時間などを諦めざるを得ない育児生活において、自分の中から「自分」を追い出し、利他的に生きる訓練を知らずしらず積み重ねていたのです。
なので、「家族4人一緒に暮らす」という最優先事項のために自分が仕事を手放し、夫に付いて金沢に移住するということは、当時の私には必然的な決断だったと思います。

金沢暗黒時代

一足先に引っ越した夫を追いかけ、半年後に仕事を辞めて子どもたちと共に金沢へ移住しました。
けれど、開業したばかりの夫は休日もなく多忙を極めていました。
土地勘もなく、頼れる知人もいない地方都市で、夫以外と会話することもなく、幼児ふたりと狭い行動範囲の中で朝から晩まで過ごす日々は地獄のようでした。
加えて私は無職。何も生産していなければ、社会的には誰の役にも立っていない存在でした。
社会からの孤立と自己肯定感の低下が、育児ストレスと合わせて私を追い詰めていました。

そんな時に夫から、会社を手伝ってほしいと言われました。

夫の会社での充実した日々

正直、夫のビジネス(観光業)には興味がありませんでした。
それでも、「子供たちを保育園に預けられる」「夫に家事育児を負担してもらえる」となれば、その提案を受けない理由はありませんでした。

幸い未経験の業務内容にもすぐに慣れて、日々の仕事にやりがいを感じるようにもなりました。

何と言っても、2015年の北陸新幹線開通に勢いづいた金沢の観光業は急成長中で、会社はどんどん儲かるし、会社員時代のような強いプレッシャーやストレスとも無縁です。
夫婦で仕事を分担し、家事育児の負担も平等になることで、夫への不公平感もなくなりました。
ビジネスは順調、夫婦仲も良好、家族は健康、と言うことなしの状態でした。

会社に集まる多様な価値観と来歴を持つスタッフとの出会いも刺激的で楽しく、あっという間に5年が経ちました。

コロナが変えた世界

しかし、金沢の宿泊市場は年々激化していました。
そこへ、2020年のコロナショックが宿泊業を直撃し、崖から滑り落ちるように経営状況が悪化しました。
どんな時もほぼ感情を出さない夫が、側で見ていて不安になるほど精神的に不安定になっていました。

補助金や融資などで何とか急場をしのぐことはできたものの、コロナ危機の状況自体が好転する気配のない中、夫から言われたのが
「Shaniちゃん、会社辞めたら?」
という一言でした。
会社の未来、家族の今後などを総合的に考えて、熟考の末に辞める決断をしました。

でも、辞めたあとはどうしよう?

夫の会社で5年間のびのび働いてきた自分に今更サラリーマンはできないな、と思った時、自然と「自分で会社を作る」という選択肢が頭に浮かびました。
知人から仕事を請け負ったりして細々と稼ぐのはどうだろう。税金対策にもなるし、何となくの思いつきでしたが、悪くない気がしました。
そして退職を迎えました。

自己犠牲の皮を被った責任逃れ

退職直後、たまたまDeNA時代の上司にお会いする機会がありました。
5年ぶりに再会して近況報告をした私に、彼が言い放ちました。

「さっきから話聞いてたらさ、コロナだとか、会社の業績がどうとか、家族のために、とか、Shaniちゃん全部ダンナや環境のせいにして自分の責任から逃げてない?”自分がxxしたいからxxする”って説明できるようにならないといけないよ」

そう言われた時、目から鱗が落ちました。

今まで私は、「家族の最大幸福のために、今はわたし個人の欲求や要望は差し置くべき時期なのだ」という落としどころでこの5年間を過ごしてきたつもりでした。

けれどそれはいつしか、自分の力でやりたいことを見つけられないことへの言い訳になっていました。

私は適応力は高い方だと思います。相手の感情や意図を汲み取って自分を合わせていくようなやり方が得意です。けれども、なまじそういうやり方が得意であるために、自分の意見があやふやな分野でも相手に合わせてごまかすことが当たり前になっていました。
いつの間にか私はただ夫の後ろにくっ付いて楽して生きてるだけの人間になっていました。

元上司は別れ際にコンビニでノートを一冊買い、最初の数ページに、私の自己分析に繋がる問いをいくつか書き込んで渡してくれました。

働くことが楽しいからこそ、仕事へ向かう態度が真摯ではなかった

私は改めて自分を見つめ直しました。

そもそも私は働きたいのだろうか?と。

今まで、働くことに苦痛を感じたことがありませんでした
働くことがそもそも好きで、どんな仕事でもだいたい楽しくやれてしまう私にとって、(おそらく世の多くの人とは違って)仕事は嫌なものではなく、むしろ楽しんで働けます。

しかしその特性が、かえって「自分はどんな仕事に熱意をもって取り組みたいのか」という内面の問いを阻害してきたことに気付きました。
深く考えなくてもある程度できてしまうから、深く考えることから目を背けていたのです。

ノートに自分の気持ちを書き出せば書き出すほど、自分にとって「仕事」は大きな関心ごとではない事が分かりました。
そして、自分の意識は常に二人の子どもに向いていることに気付きました。

子どもは私の真ん中にあって、然して私の生き甲斐ではない

自分自身の色々な事がはっきりとはしない中でも、子どもたちの幸せを願い、子どもたちとの生活が今の自分にとって何より大切であることは間違いない、ということには確信を持てました。

8歳の息子と6歳の娘は、今やほとんど手もかからなくなりました。息子はあと2年もすればもう私を必要としなくなるでしょう。そう思うと、今こうしてママ、ママとすがってくれる日々を一番優先したいと思ったのです。
ならば今の時間はとことんそのために使おうと決めました。

しかしながら、子どもは私の「最愛の推し」ではあるけれど「人生の目的」ではありません

例えば私は、推しにはとことん入れ込み、ひたすら愛して応援するタイプですが
「(対象が)私の望む姿でいることより、本人が幸せで居心地がよいと思える状態でいてくれることが何よりも幸せ...」
というスタンスで推しています。
(いや、推すという行為は本来そういうスタンスであるべきなのだけど)
それは自分の子どもに対しても同じなのです。

推しがすぐ側にいて毎日萌えが止まらない〜!
でも彼らはあと数年で引退して、私の側を離れていっちゃう...
だから引退まで、一片の悔いなく推すんだ!

みたいな感覚がしっくりきます。(笑)
つまり私にとって「子どもとの時間を優先する」というのは「とことん趣味に生きる」ということに他ならないのです

子どもが産まれたことで趣味の時間を削らざるを得なかった自分が、今一番投資したい趣味が「子ども」になるとは不思議なものです...。

余談ですが、自分が子どもたちに望むのはこんなことです。

特にどうなってほしいとかはない。
保護者として健康で文化的な最低限度の生活を提供するよう努めるが、各々の幸せは各々で見つけていただきたい。

で、これって、そのまんま自分にも跳ね返ってくるということに気づきました。何より私自身が、自分の幸せを自分で見つけなければならないんです。
肝に銘じたいです。

おわりに

長々と書いたけれど結論「仕事を辞めて推しに投資するよ」というオタクの極みのような結論になってしまいました。
ただ、私がオタクなのはもうDNAに刻み込まれていることなので、このまま推しを推しまくる時間を思い切り楽しみたいと思います。

また、一旦は「働かない」という決断をしたものの、絶対に働かないと決めている訳でもなく(今も、夫の会社の仕事の一部を業務委託で請け負っています)、チャンスやタイミングがあれば働きたいと思っています。
あとはこういうコロナなご時勢なので、我が家の財政がいよいよ死にそうになったらどんな仕事でも始めようと思っています。
たいていの事には楽しく取り組める自信はあるのでその辺は心配していません。

そんな訳で、紆余曲折しましたが今は前向きにオタ活に没頭している最高の状態です。(そして家計は火の車に...)
何の組織にも所属しない久し振りの感覚を大いに楽しむ2021年にしたいと思います。

そんなわけで、よろしくお願いします。

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