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虹が見えたら 「生きづらさ」を生き抜くヒント

憂鬱に挑む

こんにちは、Shadeです。
僕は30代、既婚(子無し)、バイセクシャルでメンタル疾患持ちの男性です。

このところ、僕の住んでいる地域ではどんよりした梅雨空が続いていて、さらに仕事が忙しいこともあり、精神的に下降気味な日々を過ごしておりました苦笑
時期的に仕方ないとはいえ、やはり抑うつ状態の真っ只中に身を置くのは辛いもの。もちろん、天候だけだけが理由ではないのですが、一刻も早く梅雨明けしないかなぁと思う今日この頃です。

そんな、ややメンタルやられ気味の僕ですが、今回は敢えて、バイセクシャルである自分が日々感じている「生きづらさ」をテーマに、それを抱えながら、少しでもポジティブに生きていく方法を模索してみようと思い、記事を書き始めました。
「ジャーナリング」というストレス発散法がある通り、書くことで頭が整理され、精神衛生に良い効果があるということは心理学的にも証明されている…はずです。

実際に僕は、noteで記事を書いたことで、自分でも思ってもみなかった考えを発見したり、新たな気づきを得たりした経験が何度もあります。
それはまるで、雨上がりに虹を見つけたような嬉しい瞬間です。
今回も、そんな瞬間に出会えることを期待して、自分なりの考えを書いてみようと思いますので、よろしければお付き合いいただけると嬉しいです。
そして、読んでくださった方にとっても、生きづらい世の中を生き抜くための何らかのヒントになればと願っています。

「生きづらさ」の正体を探ったら…

セクシャリティに関わらず、どんな人にとっても人生は難儀なものです。外では平気な顔を見せていても、心が常に平穏である人なんていないのではないでしょうか?もしも、世間の全ての人にとって生きづらいことがデフォルトであるなら、バイセクシャルである自分の「生きづらさ」とは何なのか。そう考えてパッと思いついたのは、「共感する・される」機会の少なさでした。

誰かと話していて、「それ、わかる!」と共感し合える瞬間というのは、僕にとって、人生の喜びの中でもかなり上位に入るものです。悲しいかな、まだ自分の性的指向と向き合い始めたばかりの僕には、セクシャリティの面でこの喜びを味わえる瞬間が少ない、というよりほぼない苦笑

けれど、noteを始めて、リアクションやコメント、フォローをしていただくたびに、それと同じような感覚を味わえていることに気づきました(あらためて読んでくださる皆さんに感謝です)。
また、他のnoterさんの記事を読ませていただいている時も、「その気持ち、わかる!」という瞬間が何度もあります。
今後、実生活の面でも、この「共感する・される」機会を増やしていくことが、自分が日々感じている「生きづらさ」を軽減する手段の一つになるのかもしれません。

けれど、そのためには引き受けなければいけない痛みがあることもまた事実です。それは、自分をどんどんオープンにしていくという行為。
自己開示が苦手な僕にとっては至難の業ですが苦笑、「やってみる価値はある」と、現時点では思っています。
そしてそれは、前回の記事でも書いた、「家族へのカミングアウト」ともリンクします。

これまで(勝手に)空気を読んで、抑圧してきた「もう一人の自分」を、どんどん解放していくこと。実際に、現在のパートナーである奥さんや友人にカミングアウトした時、その瞬間はもちろん苦痛を伴いましたが、結果として、それまで見えていた景色が180度変わるくらい、ポジティブな変化がありました。
今後も、無理をしない程度に自己開示を続け、その先に生じるはずの喜びを少しでも味わいたい。今僕はそう考えています。

分断しないことで分かり合えるもの

また、先日こんな概念を初めて知りました。
それは、「ダブルマイノリティー」というもので、読んで字のごとく、「一人の人間が二つのマイノリティー性を持っている状態」を指す言葉だそうです(すでに常識的なものだったらすみません)。
例えば、外国の方であり、かつ身体に障がいを抱えている方とか、セクシャルマイノリティーであり、かつ精神疾患を持っている、とか…と、そこまで読んで、「これって自分のことじゃん!」と気づきました苦笑
そりゃ生きづらいわけだ…

ちなみに、マイノリティーという概念は、単に「少数派」という意味には留まりません。以前の記事で紹介した、森山至貴さんと能町みね子さんの共著『慣れろ、おちょくれ、踏み外せ 性と身体をめぐるクィアな対話』(朝日出版社、2023年)の中に、こんな一文があります。

森山 (前略)「マイノリティとマジョリティってどういう意味ですか?」と聞かれる場合、構造的な弱者と強者、と私は説明しています。社会の構造上弱い立場に置かれる人と、強い立場に置かれる人がいる。男性がマジョリティで女性がマイノリティ、みたいな表現があるのは、この意味に基づくものですと説明します。

同書、162Pより

つまり、現在の日本社会で、女性であり、かつメンタル疾患を持っている方、もしくはセクシャルマイノリティーである方なども、上記の説明を踏まえると「ダブルマイノリティー」に属していると言えます。
さらに、ストレートの男性であっても、例えば会社の中で、上司という存在に対して自分が部下であれば、「マイノリティー(構造的弱者)」であると言えそう。そうなると、この概念に当てはまる方の数ってかなり多いのでは…という気がしてきます。
要するに、セクシャリティに限らず、見えない「マイノリティー性」を抱えている方は、思いの外たくさんいるのではないかと思えてくるのです。

僕は、セクシャリティに関わらず、なるべく多くの人と共感し合いたいし、そのためにも、「LGBTQ+」VS「ストレート」みたいな対立構造は避けたいと考えています。それは、前章で示したような、「共感する・される」機会を自ら減らすことに繋がってしまうから。
性的指向がマジョリティーに属する方でも、何らかの面で「マイノリティー(構造的弱者)」である方はたくさんいらっしゃるでしょうし、そう考えると、セクシャリティによってのみ人を分断することはなるべくしたくない。

それに加えて、誰もが「生きづらさ」を抱えているのがデフォルトであるならば、少なくとも一つは、みんなが「共通のもの」を持っていることになります。もしもそれを前提とした場合、僕が気がついていないだけで、意外と「共感する・される」機会は、そこら中に転がっているものなのかもしれません。
たとえその相手が、自分と同じセクシャリティでなかったとしても。
そう思うと、うっすらとですが希望のようなものが見えてくる気がするのです。

虹が出るまで

と、かなり風呂敷を広げ過ぎてしまいましたが苦笑、これが現時点の僕が思う、「生きづらい世の中」を生き抜くための考え方です。

もちろん、僕らを取り巻く世界はそれほどシンプルではないし、世間には本当に色々な考えを持つ人がいるものです。
けれど、理想を掲げることは、決して悪いことではないと僕は考えています。少なくとも自分にとっては、行動を起こすための重要なモチベーションになる。

例えば、記事中に書いてきた「共感」という言葉を、「理解」に置き換えたらどうなるでしょう?人によって感じ方はそれぞれだと思いますが、僕としては、少しハードルが下がる気がします。
僕は恋愛の対象としては女性に惹かれる一方、性的な魅力は男性に覚えることが多い。そこに「共感」してくれる人は少ないかもしれないですが、そんな自分の特性を「理解」してくれる人は一定数いる…はずです苦笑
甘いと言われればそれまでなのですが、僕としてはそこに一縷の望みを託したい。

今日も雨降りで、どんよりした曇天が続いていますが、誰でも知っている通り天候は毎日のように変わるもの。一日、一日を大切に生きていれば、いつか雨が上がって虹が出ることもある。
少しでも多くの「共感」や「理解」を得るためにも、一歩ずつ着実に、自分を見失わないように、梅雨明けを待ちたいと思う次第です。

それでは、長くなってしまったので今日はこの辺で。
最後まで読んでいただきありがとうございました!

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