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やさしい怪談

5月で終わるかと思っていた本業の繁忙期が、(おそらく)2か月ほどの延長戦に突入している。苦笑いしながらタスクをこなす毎日だが、たたでさえ暑さや湿気のため体調を崩しがちな時期。湯船につかり、無理のない範囲で運動し、栄養のある食事をとって乗り切りたい。

忙しいなかでも、いや忙しいからこそなのか、読書がはかどる。最近では宮部みゆき『おそろし 三島屋変調百物語事始』がすごかった。江戸時代を舞台にした時代小説で、作品のジャンルは怪談。時代小説×怪談は宮部さん鉄板の組み合わせのため期待値は高かったが、予想を大きく超える素晴らしさだった。

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宮部みゆきさんはすごい

宮部さんは現代きっての万能作家。現代もののミステリーやホラー、サスペンス。時代ものにファンタジー、SFまでジャンルは何でもござれ。短編も長編も、複数巻にわたる超長編も手掛ける。そしてジャンルを問わず作品のクオリティーがとても高い! 宮部さんの作品はそれなりの数を読んでいるが、「これは外れかもしれない」と思ったことはほとんどない。作品ごとに合う合わないはあるにせよ、面白いんです、読む作品読む作品どれもこれも。

宮部さんの作品で最も好きなのは、現代もののミステリー・杉村三郎シリーズ。だが折に触れて読み返したくなるのは、怪談を扱った時代劇の短編集だったりする。

少し前に、宮部さんの初期短編集『本所深川ふしぎ草紙』を読み返した。現代の東京・墨田区にあたる本所の七不思議を題材に、全7話の短編が収められている。

宮部みゆきさんの作家としてのすごさはたくさんある。そのひとつが登場人物の感情描写の繊細さ。『本所深川~』では、人の心のひだひだまで丁寧に解きほぐしていくような、きめ細やかな感情の機微が描かれる。人間の感情を表す言葉として喜怒哀楽がある。しかし感情はこの4種類だけではない。喜びにもたくさんの種類があるし、怒りにもたくさんのバリエーションがある。好き嫌いにだってグラデーションが存在する。

宮部さんは、必ずしも単純でない、複雑で多様な人間の感情を描くのがとてもうまい。そして説得力もある。文庫版『本所深川~』の解説によると、この作品を書いた当時、宮部さんは30歳だったとか。「30歳でこれを書くってすごすぎるでしょう」と、読み返すたびに毎回驚いている。

心を閉ざした少女が聞き役を務める“変調”百物語

『おそろし 三島屋変調百物語事始』の話だった。『本所深川~』を読み返した後、しばらくぶりに宮部さんの時代小説を読みたい気分になった。しかし忙しなさもあり、重厚そうな作品に手を出すのはためらわれる。迷った末に手に取ったのが『おそろし』だった。

舞台は江戸の袋物屋「三島屋」、主人公のおちかは17歳。実家の旅籠で起きたある出来事のために心を閉ざしていた。心配した家族は、おちかにとっては叔父にあたる伊兵衛夫婦のもとにおちかを預ける。この伊兵衛夫婦が営んでいるのが三島屋で、おちかは日々、女中に交じって身を粉にして働く。身体を動かして忙しなく過ごすことで、過去のつらい出来事に心を囚わないように努めていた。

そんなおちかのため、伊兵衛が仕掛けたのが「変わり百物語」。三島屋内にある「黒白の間」に訪れる客の話をおちかが聞く、というもので、客たちがおちかに語る話の内容が怪談なのだ。言うまでもなく怖い話だから、そこには人の死や過去の悲しい記憶がつきまとう。

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人間の感情は単純ではないし、常に明るい感情でいられるわけでもない。喜びと楽しさだけで生きていけたらどんなにいいかと思うけれども、怒りや哀しみも避けては通れない。好きな人、好きなもの、好きなことだけを考え、関わっていければいいけれど。誰かや何かを嫌った経験や、何かに憎しみを抱いてしまった経験が全くないと言い切れる人がどれだけいるだろうか。

人間のなかにある後ろ暗い感情。それが強まったとき、惨劇や悲劇が生まれる。そして結果的に、怪談に発展してしまうこともある。あるいは誰かを想う前向きな感情も、それが過ぎれば禁忌に踏み入ってしまったり、想い人以外の誰かを害してしまったりするかもしれない。人生のすべてを自分の思惑通りに動かし、決めることができない以上、どうしても起こってしまう悲劇だってある。それらもいずれ、怪談と呼ばれる物語になるかもしれない。

おちかに対面する客人たちは、おちかに怪談を語ることで、自分や近しい者たちの過去の感情に向き合うことになる。その結果が怪談になってしまうほど、強くほとばしった感情の動きに。それは自分自身の心の中にある、暗い部分に向き合うことでもある。そしてその暗い部分は、三島屋に預けられるきっかけになった出来事以来、おちかの心にも巣くっているものだ。

当初は心を閉ざしていたおちかは、客が語る怪談をきいていくうちに、徐々に変化していく。自らも大きな不幸を経験したおちかが、不幸には様々な形があることを知っていく。人間の悪意や敵意が不幸を生むこともあるが、誰にも悪気がなかったとしても起こってしまう不幸もある。客が語る怪談によって前に進んだり後ろに戻ったり、時には横に揺れたりしながら、おちかは閉ざしていた心を開いていく。

「やさしい怪談」は『おそろし』の解説文にあった言葉。言いえて妙だと思う。時には間違ったり、後ろ暗い感情を抱えてしまうのも人間。そんな部分も含めて人間を慈しむやさしさが、『おそろし』や『本所深川~』で描かれる宮部さんの怪談には貫かれているように感じる。

『おそろし』に収められた怪談は5話分。それぞれの話は短編として読めるが、5話全体としても1本の長編小説として読むことができる。5つの怪談を読み終えると、長編としてもオチがつく構成になっている。ものすごく満足感のある読書だった。本当にすごい。

そしてさらにすごいのは、この物語はまだまだ続くらしいということ。『おそろし』に収められた怪談は5話。百物語をすべて消化すると考えると、残りは95話。同じように1巻に5話収録で単純計算すると、あと19巻も“三島屋変調百物語”が続くことになる。あと19回も今回のような読書ができると考えると、「そんな贅沢な経験をさせてもらっていいんですか!?」と期待が膨らむ。

忙しい日々は続くが、そんななかでも新しい喜びや楽しみはいろいろと生まれる。前向きにやりたいこと、やってみたいことがいくつもある。まずは来月あたり、三島屋変調百物語の次巻を手に取ってみたい。



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