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【読書記録】他人事とは思えずにいた。|川上未映子『黄色い家』

 私は、今の今まで、自分が「ちゃんと」生きてこれたのは普通のことだと思っていた。裕福ではないが貧乏でもない家庭で育ち、大学まで学校に通い、地元の会社に入社したごく一般的な人生。もちろん、そうできない人がいることを知っているし、可能であれば力になりたいとも思う。しかし、花たちを見ていると、自分はきっと経験するようなことではなかったのに、不思議と「あり得たかもしれない」人生の一つのようにも思えてくる。たった一つ、小さなことでつまずいただけで、転がり落ちてしまうような斜面の上で私たちの生活は成り立っている。

 私はこういう物語が好きだ。「しんどくて重い話だったよ」と前評判を聞いていたわりには、駆け抜けるように一気に読むことができた。読後感も、決して嫌な後味が残る感じではなく、むしろ作者の優しさを感じた気がする。実際のところ、登場した人物は誰も——花も、蘭も、桃子も、黄美子さんも——ハッピーエンドを迎えたとは言いがたい。だけど、救いはあったように思う。

 もう一つ、読んでいてそこまで胸が締め付けられるような思いをしなかったのは、花に共感し、感情移入し、途中からはまるで憑依するかのように自分を重ねているような感覚になっていたからだと思う。もちろん花がつらいと感じる時もあったかもしれないけど、それ以上に生きるのに必死で、悲しんでいる暇すらなかった。だからこそ、「かわいそう」なんて思うことはなく、手に汗握る緊張感の中で、一気に読み切れたのだと思う。それほどまでに、情景の描写も心情の描写も丁寧な作品だったし、なにより花の選択には「こうするしかない」というようなある種運命のようなものが透けて見えた。もっとエゴのある選択をしていたら、ここまで自分を重ねて読むことはできなかったかもしれない。

 「人はなぜ、金に狂い、罪を犯すのか」という帯が印象的だった本書。しかし、花たちは「金に狂って」罪を犯したのだろうか。たしかにお金はなかった。福やのエンさんが言っていたように、貧すれば鈍する、お金を持っていることは大事。しかし、花たちが迎えた結末は、「家」が崩壊してしまったことによるものだと思う。「家」というのは、物理的に住む場所としての家だけでなく、社会的な身分を示す家、精神的に居場所となる家の複合だ。

 まともな身分証を持たないまま実家を出てきた花は、まともな職に就く手段がなかった。もちろん、なにかしら身分を証明する方法はあったのかもしれない。しかし、まだインターネットの普及率が1割ほどだった90年代後半の日本で、周りに頼れる大人もいない中で、日々の生活に手一杯の状況で。私が花だったとしても、きっと同じ運命をたどるしかなかったと思う。そして、花には居場所もなかった。家族を捨てた父親とネグレクト気味な母親のもとで育ち、友達もできず、趣味もなかった花は、黄美子さんが現れるまではずっと一人だった。蘭も桃子も、花よりは恵まれた家庭に生まれたかもしれないが、折り合いが悪く、居場所はなかったと思う。

 親ガチャ、が流行語大賞にノミネートされた2021年。花たちは、まさに親ガチャに外れて、生まれた「家」で生きていくことができなかった人たちだ。それは、母親が刑務所にいる黄美子さんにも言える。彼女たちは、そんな足りない要素を埋め合うために、寄り合って相互依存する「家」を作った。しかし、それは社会的な信用を得られるようなものではなく、また本当の意味で心を許せる場にもなっていなかったように見える。さらにそこに金の切れ目が重なって、そこが縁の切れ目になってしまった。

 花たちが犯した罪も、お金に目がくらんで魔が差したというようなものではなかった。社会的な信用がない状況で、れもんを再建して「家」を成り立たせたいがための必死の行動の結果だったと思う。少し話が変わるが、芥川賞を受賞した『東京都同情塔』では、犯罪者にも同情すべき背景がある、という提言が皮肉として語られていた。そこで出てくるホモ・ミゼラビリスとは、まさに本書の花たちのような人のことを言うのだろう。『黄色い家』を読んだ私たちは、もはや花のことを悪人だと思うことはできない。しかし、現実には詐欺の被害者もいるわけで、彼ら/彼女らからしたら、花たちはただの詐欺師でしかない。その詐欺師を「こうすることでしか生きられなかった、同情すべき人なんです!」と擁護しても、世間に受け入れられはしない。

 「では、花たちはどうすればよかったのだろうか。」

 そう聞かれても、私にはその答えがわからない。救いがあると冒頭に話したのは、あくまで物語の中で作者が花たちに向けた優しいまなざしによる読後感の話で合って、何かが解決したわけではない。同情すべき境遇の人たちが、犯罪に手を染めてしまう。助けたいと思ってとしても、「こうするしかない」選択肢を選び続けて転落している花の前で、私たちはただ見守っているしかなかった。これは、システムの欠陥だから。資本主義社会の中で、どうすれば誰もが「ちゃんと」生きることができるのだろう。物語としてはドキドキしながら読めたものの、同時に現実を突き付けられるような作品だった。


 最後に、これは余談だが、新型コロナウイルスの登場によって社会が大きく変わった2020年以降、こういった悲喜劇のような物語がメジャーになったようになった気がする。コロナ前後の本屋大賞の受賞作を、以下のように並べてみた。

・2016:『羊と鋼の森』
・2017:『蜜蜂と遠雷』
・2018:『かがみの孤城』
・2019:『そして、バトンは渡された』
・2020:『流浪の月』
・2021:『52ヘルツのクジラたち』
・2022:『同志少女よ、敵を撃て』
・2023:『汝、星のごとく』

 私の感覚値で申し訳ないが、『流浪の月』、『52ヘルツのクジラたち』、『汝、星のごとく』は、いずれもつらい状況にある登場人物たちがリアルに描写されつつも、最後には救いの手を差し伸べているような話だったと思う(『同志少女よ、敵を撃て』は、積読していてまだ読めてません…)。コロナ禍で誰もが閉塞感に苛まれていた3年間。私たちは、ひたすらにハッピーな話を物語に求めるようになったのではなく、つらい状況にいる自分たちを救ってくれるような、そんな優しいフィクションを選ぶようになったのかもしれない。



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