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男子校文芸部は学校空間の権力性を相対化する

世田谷学園文芸部のOBと顧問の対談企画です。
中高を文芸部で過ごしてきた経験がどんな逸材を生み出すのか、お楽しみください。
今回は、昨年2020年8月~12月にかけて行われた対談の後編です。
前編はこちら。

自由と責任の不公正

鵜川 日本的な関係性や場の特徴というか問題点について、高校の現代文では必ず扱ってきたと思うんだ。阿部謹也の「『世間』とは何か」とか、丸山眞男「『である』ことと『する』こと」とか。あれって、「世間」という空気だったり、職場などで割り当てられた役割だったり、その場に共有されている関係性から自由になれず、個人が主体として振る舞えないことが問題視されていたと思うんだけど、今の話って、それよりもずっと根の深い問題だよね。そもそも、これは日本特有の問題でもない。ある意味、近代的な自我が寄りかかっていた自由というフィクションを捨てる必要がある。
 「自由には責任が伴う」という言い方があるじゃない。この言葉、「自由」と「責任」の定義次第でどんな意味にでもできるから、僕自身は大嫌いなんだけど、今の話を考えようとした時には、一つの示唆を与えてくれると思う。つまり、マジョリティの「自由」を支えてきたのは、マイノリティが支払った「責任」だってこと。

矢口 またフーコーやルーマンあたりの話になってきましたね。人間は、規律権力やシステムの中でしか生きられず、「自由に」かつ「合理的に」意思決定できる近代的な主体なるものは存在しない。勿論、場所や状況によって働くシステムの性質は変わるんでしょうけど、日本でいう「世間」もシステムの一種に過ぎない。
 マイノリティの支払った「責任」とマジョリティの「自由」は、ややこしい問題ですね。マジョリティもそもそも主体として振る舞えるわけではない。そこへもってきて、マイノリティに負担を強いる形で、マジョリティが見せかけの「自由」を享受するシステムが働いていた。例えば恋愛・結婚について考えましょう。「あなた方は、身分や門地家柄によらず、自由に好きな相手と恋愛して結婚することができる」という言説について。過去10年間ぐらいの日本の文脈でいうと(確かに前近代・戦前に比べれば、結婚の制約は少なくなったのかもしれませんが)同性婚は法的に承認されていないし、シングルやひとり親は差別に晒されているし、一度に複数の人間と恋愛関係にあることは非難の対象になります。要は異性愛者でモノアモリーで恋愛の後に結婚があって、という異性愛規範・結婚規範に則った人々の「自由」しか担保されていない。他のマイノリティの「責任」の上に。

鵜川 そう考えると、やっぱり学校での学びって重要だと思うんだけど、それを実装しようとすると、非常に難しい問題に突き当たるんだよね。特にうちの学校の場合。
 そもそも、生徒という存在は、社会的に弱い立場に立たされている。具体的に言えば、自分たちの学びの構造(内容や方法)に対して関与することが許されていないし、その能力はない、とあらかじめ規定されてしまっている。(もちろん、それを打破しようという試みは、学園内外で行われていますが、個別事例はひとまず措いておきましょう。)
 一方で、私立の中高一貫校で、しかも進学校であるという面から見ると、家庭環境は圧倒的なまでに社会的強者です。そういう意味で、生徒は二重化する立場に置かれてしまっている。(「勉強させてもらえることを、ありがたいと思いなさい」という言い方が、より先鋭化された状態、という感じかな。この言い方も大嫌いです:笑。)
 そもそも、今の時代、高校や大学の卒業時に必要なのって、知識レベルでの完成ではなく、主体的学習者として成長していく自己像/マインドセットの獲得です。学習者として試行錯誤し続けられる人に育てようとすれば、自分たちの学びをデザインできる権限を(たとえ一部でも)引き渡さないとダメでしょう。
 そういう意味で、高一で母校を買収したという仁禮彩香さんの話は、非常に興味深くとらえてます。

矢口 「主体的学習者として成長していく自己像」は重要な論点ですね。大学に入って一番面白かったのは、みんなが自分の進む専門分野について、自分で知識を得ていること、読書会を開いていることでした。僕も今三つぐらいの読書会・勉強会に出ていますが、自分たちでテーマを設定して、本を選んで読み、好き勝手発言する場が無かったら、今ほど大学生活は面白くなかったでしょうし、学ぼうという意欲も持続していなかったでしょう。キャンパス内で大人数で集まれない今年は特に。思えば高校でも文芸部ではSFや映画で好き勝手なことを言っていましたけどね。
 目標にせよ、企画にせよ、要は自主設定が大事という話です。エリートとしての自覚が重要になる場面もあるのでしょうが、それは学ぶうちに後からついてくるものです。初めから一方で学びの構造への関与を取り上げ、「勉強させてもらえることをありがたく思え」と自己の定義への関与を取り上げたら、自主性の育ちは阻害されます。仁禮さんのように、自主設定に関する権利を与えるよう交渉するのはいいですね。僕は高校の時、ぼーっと考え事していた方なので。

リテラシーかアーキテクチャか

鵜川 そういうことで言うと、もしかすると世田谷学園はいい方向に向かってるのかも。生徒主体で数年前に始まった自主研究発表会は毎年盛況だし(昨年度は発表者多数で、日程が一日におさまらず、二週にまたがって実施されました)、自主的な研究会を自由に作って放課後に活動できるようになったし(今はコロナの影響で規制がかかってるけど)、意欲のある生徒も、それを後押しする枠組みも、少しずつ整ってきつつある。

矢口 どんなものなのか覗いてみたいですね。よその勉強会ってあまり覗いたことがないので後学のため、というのと、僕の卒業した後の世田谷学園への興味から。まあ勉強会って性質上、末端からのものですからね。一挙に全部つくりかえるというわけにはいかないんでしょうが。

鵜川 そうなのよ。だからこそやきもきします。なんせ、カリキュラムの在り方は一向に変わらない。今年の3月から5月までの休校期間、6月の分散登校期間で、リモート学習・授業の色々な可能性を試すことができたし、その中のいくつかは旧来の授業よりも効果的だったりしました。もちろん、それを活かして授業・課題を刷新している先生もいるけど、全体的な動きにはなっていないよね。
 生徒が主体として振る舞う瞬間が増えていけば、学びの在り方もおのずから変わっていくと思うんだ。そのための教具として、iPadをはじめとしたデジタルデバイスは、いい仕事をしてくれています。一方で、また別の問題も浮上してきているけど。

矢口 別の問題というのは、デジタルデバイスとの向き合い方みたいなことですか?

鵜川 そう。もちろん、単純な使い方の問題――例えば、授業中にゲームしてるとか、家で動画にはまっちゃってるとか、そういう問題もあるんだけど、それ以上に、リテラシーやモラルの問題が置き去りにされてる。
 さっきの話にも通じるんだけど、学校って、現行のカリキュラムの中に落とし込めないことを、教育として実装することが、異常なまでに困難な空間なのよね。例えば「メディアリテラシーを身につける必要があるよね」(この言い方も雑だけど)、ということになったとする。そこで当然「誰が、いつ、どこでやるのか」って話になるんだけど、実質的にはここで終わりなの。詰みなのよ。つまり、この答えは「担任が、ロングホームルームの空いた時間にやる」一択。で、当然、うまく進むはずがない。進んだとして、継続できるはずがない。
 ようやく世田谷学園は、この枠組みに手を入れようとしていて(多分、まだ言っちゃいけないので、内緒にしておきますが)、ようやく「誰が、いつ、どこでやるのか」を考えることができる状況になってきています。

矢口 カリキュラムの設定なら「誰が、いつ、どこでやるのか」が大事なんでしょうが、個人的に気になるのは、その前の段階、誰かがやらないとデバイスと適度に向き合うことができない人がいるということです。
 結局、発信の手段を手にするだけでは、ヘイトを垂れ流してしまう。リテラシーやモラルというものを後天的に獲得しないと、ヘイトを垂れ流すような人々を含んで社会が構成されてきたと。潜在的だったときは社会の維持に何の問題もきたさないように見えてきた。けれどもそうした言動が、アーキテクチャによって顕在化してしまった以上は何らか手を打たなければならない、とみんな考えている。
 不謹慎ですが、果たしてリテラシーやモラルで手を打たないといけない問題なのかと考えることもあります。アーキテクチャの問題なのか、リテラシーやモラルの問題なのか時々わからなくなるんです。ま、どっちも問題なんでしょうけど。

鵜川 レッシグじゃないけど、やっぱり「アーキテクチャ」の力は大きいよね。「法律」による介入なり規制なりが、そもそも事後的にしか為されない(介入段階では、既にヘイトが垂れ流されている)以上、ヘイトの書き込み自体できなくするのが、手っ取り早い。実際、多くのネットサービスではNGワードが設定されていて、特定の語句は書き込めなくなっています。
 一方で、「信用スコア」のように、社会行動を監視・評価して価値化する方法は「市場」原理に則った規制といえるかな。賛否あるようだけど、世界的な流れとしてはこちらに向かっていく気はしています。
 だったら、モラルはほっといていいのか、っていうと、もちろんそうはいかない。これは「規範」=「ディシプリン」の話になると思うんだけど、結局、これって経験的に身につけていくしかないと思っていて。
 例えば、モラルに関する授業や講演会を実施したとして、それだけで行動変容につながるかって言うと、まあ無理だよね。それよりも、ロールプレイやワークショップのような体験を通じて学ぶ機会を用意する必要があるかな、と。
 あとは、学校内でクローズドなSNSを用意し、その中でのコミュニケーションを通じて、失敗も含めて経験させる。そもそも、教室や学校という場自体が、そういう機能を持っているわけじゃない。ネットワーク上にも、同じ場を用意したい。これは、学園にiPadを導入する時からずっと提案し続けているんだけど、なかなか進んでいかないです。

矢口 クローズドな環境でコケるっていうのは、モラルの観点から大事なのは勿論ですけど、アーキテクチャの観点からも良さそうですね。クローズドな環境でいろんなアーキテクチャを試すこともやろうと思えばできますから。各々のクローズドなSNSでどんな問題が発生したのか、あるいは発生しうるのかを知ることができる。アーキテクチャを自覚して使った方が、オープンなネットワーク上のSNSのうちどれをどう使うのか考えやすい気がします。
 NGワードや信用スコアというのは潮流ですし、信用スコアが導入されたSNSを使ったこともあります。確かに炎上は起こらないんですが、よくない状態に応急処置を施すだけという気がして。言えることに制限がかかるか、いいね・リツイート等が信用スコアに置き換わるかしただけで、炎上が起こっていたSNSと評価ゲームの根本は変わっていない。様々な情報と不快な方法で接続されてはいないかという話です。例えば、twitterで炎上に参加している人はユーザーのごく一部だというデータがある。炎上は問題なんですが、大抵のユーザーは参加しないし、ひょっとしたら興味もないかもしれない。興味のない炎上の情報に日夜晒されるようなアーキテクチャは果たして「適正」と言えるのか。モラルの問題なのかわからなくなるという発言の意図はこういうことです。教育によって高校生のモラルが良くなってもこの問題は解決しませんから。

鵜川 「信用スコア」と「いいね」の違いはよく考える必要があると思う。「信用スコア」はモラルじゃなくて市場の問題だから。伊藤計劃の『ハーモニー』なんかを思い浮かべると分かりやすいんだろうけど、信用が可視化されることで、個人の価値が経済的な活動に反映されるというイメージかな。それがいいことなのかどうかは分からない(SF的には、こういう設定はディストピア感満載だ)けど、社会的な潮流としては止まらないだろうね。

矢口 「信用スコア」と所得情報、預金情報、職業等々の個人情報が紐づけられたら、確かにディストピア小説っぽいですね。
 評価ゲームが同じというのは語の選択を間違えました。いいね・リツイートを稼げるようなツイートをせよとか、信用スコアを上げるような投稿をせよとかいうアーキテクチャのSNSに、目的のない人が取り組んだら雑言だらけになるのでは、という意味です。人のことを中傷したら、「いいね」ももらえるし(その実何も言っていないに等しいのに)持論を展開できたかのように感じられる。信用スコア付きSNSだと中傷までは行きませんが、他人が用意した議論の上で、本筋と無関係な論陣を張って、何か言った気になれる。実際、そういうアカウントに絡まれました。いずれにせよ、自我が未発達だと、ヘイトをはじめ、雑言の垂れ流しになるようにできているのではなかろうかと。自戒も含めてですが。

ポジティブ・フィードバックかシステム依存か

鵜川 自我の発達をどう促すかというのは、やはり教育の領域で考えなくてはならない事柄だね。それで言うと、二点指摘しておきたいかな。
 一つは、高校生全体のモラルが向上したとしても、矢口君が指摘するように、例えば炎上につながるような書き込みはなくならないということ。だとすれば、限られた教育リソースを、モラルの向上や炎上の防止にどれだけ割くかは、結構重要な問題(でも、しつこいようですが、放置はだめ!)
 そこで重要になってくるのがもう一つ。モラルの向上って言った場合に、それに反した行動を減らすことよりも、ポジティブ・フィードバックを生み出すような言動を増やしていく方向を模索すべきじゃないかな、と。
 さっきの「いいね」の話に絡めて言うなら、「いいね」をもらった数じゃなくて、どれだけ周囲の言動に対して「いいね」を出しているか。これは、SNSに組み込まれたボタンを使った行為ではなく、具体的に良いものに対して「いいね」を伝える言動のこと。これは、僕自身も、日常生活の中で意識的に行っていることだったりします。

矢口 ポジティブ・フィードバックを生み出す方向性はモラルで模索すべきものですね。双方向性を前提にしたSNSでは肯定的な言動より否定的な言動の方が前景化してしまっている。場合によっては否定的な言動しか展開されない。ネガティブ・フィードバックの帰結としての炎上が常態化している。ポジティブ・フィードバックはクローズドな箱庭的環境でも実践しやすいですし、限られた教育リソースを割く価値のあることでしょう。モラルを持った「傍観者」やヘイトを叩くユーザーを増やすだけでは、炎上の抑止にはあまり効果がなさそうですから。

鵜川 リアルな環境だと実感しやすいけど、ポジティブな反応が得られる場や、寛容性の高い空間だと、発言も行動もポジティブでアクティブになりやすいんだよね。新しい発想や、独創的なアイディアが生まれるのも、こういう場であることが必須条件だったりする。逆に、間違いやミスを指摘することが目的化されている空間とか、そもそも個人の行動に対する反応性が低い場だと、ネガティブでパッシブなメンタリティが醸成されてしまう。
 って、これ、古い日本の企業文化まんまじゃん。

矢口 独創的なアイディアが生まれるような集まりに所属することの重要性は大学に来てから正に実感しています。ただ、ネガティブでパッシブなメンタリティって大学の頃からあるのではと、サークルやクラスの同回生から感じます。高校の時から「先生」の言うことを疑問なく受け入れていて、法的根拠のない大学当局の指示に従い、指示に従わない学生を口頭で攻撃しているのを見たので。そういう人が就職して、管理職になり、「古い」日本企業文化を創り出しているのではないかと。自分を取り巻くシステムに全然自覚的になろうとしないし、自分と同様の生き方しか認められない。「炎上の参加者は男性が多く、世帯収入も炎上非参加者より有意に高い」というリンク先の主張も、信憑性はどうあれ、感覚的にはうなずけます。「古い企業文化」への順応度の高い人(男性管理職)と炎上の担い手とが同じシステムから産出されているのは全く不自然ではない。

鵜川 結局、現状のシステム下である程度以上の成功を収めている人は、所属や年齢にかかわらず、そのシステムを脅かされることに対して強い抵抗感を示すということなのよね。要するに、「システム正当化理論」や「公正世界仮説」の話ね。(最近読んだ『偏見や差別はなぜ起こる?:心理メカニズムの解明と現象の分析』は、この辺りの話が幅広く押さえられているので、オススメです。)

 そう考えると、価値観が多様化して、現状のシステムが周縁領域から変容を迫られていることが、より一層の抵抗感を生み出している可能性もある。と言っても、この話の難しいのは、勝者敗者の二分法では説明できないところ。同心円的なヒエラルキーの中で、中心に近い勢力には現状のシステムを維持したい人が多い一方で、むしろ新しい価値観に対して開かれている人もそれなりにいたりする。逆に、中心から少し外れた位置にいる人たちの方が、「システム正当化理論」から抜け出せなかったりする場合も多々ある。例えば、そのシステム下で中途半端ながらも成功を収めていて、またそれゆえに十分な自信がなかったりするケースね。
 私立学校の教育改革を見ていても、そんな感じよ(って、この話、大丈夫か?)。

矢口 マクロにみていくと、価値観の多様化で変容を迫られることへの抵抗感が、システムを脅かすように見える他者への過剰な攻撃につながっている。でもミクロにみていくと、同一のシステムの中で成功を収めている人が必ずしも、そうした他者への抵抗感が強く、攻撃性が高いとは感じられない。システムの中での微々たる成功を覚えたぐらいでは、まだ今後成功の余地がありますから。更に成功しようと一生懸命なときに「そのシステムは相対的なもので、意味ないかもしれませんよ」という言葉は受け入れがたいのかもしれません。今後余地がないぐらい成功してしまうと、どのみちやり方を変えないと、さらなる成功は見込めないでしょうから。学校のカリキュラムの話もご多聞にもれずというわけですか。(面白くなってきましたね)

価値観の多様化の波と壁

鵜川 結局、社会的な価値観が多様化しても、学校なり企業なりの依拠する評価軸が多様化しなければ、システムの変容には繋がらない。中学・高校なら、偏差値や進学実績に拠らない評価が増えて欲しい。
 と言いつつも、受験情報サイトや一部の雑誌が、毎年「大学合格者数ランキング」を特集記事とセットで掲載しているのを見ると、価値観が多様化することと、現状の評価軸が相対化されるのとは、また別の問題なのかな、とも思う。それこそ、STEAMとかSDGsとかPBLとかキー・コンピテンシーとか、新しい教育観なりヴィジョンなりに乗っかったとしても、最終的には進学実績という数字に還元されてしまうとしたら、悲しいかな。
 もちろん、価値観の相対化が進んでいる部分も、実感として十分にあるよ。生徒と話していても、保護者と話していても。だから、この先、一連の変化がどんなふうに進んでいくのか、楽しみな反面、怖いところもあるよね。浦島太郎にならないとも限らないわけで。
 特にコロナ禍の休校期間で分かったのは、すごくたくさんの人が、教育に対して問題意識と意欲を燃やしていた、ということ。勉強を教えるのは、もはや学校と塾の専売特許じゃない。有料ですらない。この先、学校や教員が、自分たちの役割の転換させることができないと、本当にまずいと思う。と言っても、この流れ自体は今に始まったことじゃないんだけどね。

矢口 目下の僕にも当てはまりますね。僕の興味のある研究をしている教授がいる、という理由で、浪人して京都大学に進んだんです。このまま学部を卒業して、就活して、新卒で就職して、という道を進むのも選択肢としては悪くはないですが、現状の評価軸から全く自由になれない。新卒で就職しておいて評価軸に則った安全圏内で多様性について考えることが、果たして僕のやるべきことなのか疑問です。ある評価軸の中でいろんなヴィジョンを描くのはいいが、新規の評価軸を打ち立てようと試みなくて良いのだろうかと。小さなフィールドの小さなことでいいんです。まだ漫然と考えてるだけですけど。
 役割の転換は必要でしょうね。そもそも自分の接する情報/消費の在り方が変わった気がします。個人的な感覚では、web上の記事にせよ、雑誌にせよ、書籍にせよ、web上のメディアを介して知る機会が増えました。例えばよく確認するあのサイトで取り上げられていたから、twitter/noteで見て面白そうだったから、好きな動画/音声番組投稿者が取り上げていたから、読んだ、買ったという類のことです。面白そうな情報に当たるぐらいwebを見ているわけですから、未整理のまま日々大量の情報に接していることになります。そもそも地上波のTVみたいな型どおりかつ、一方通行の情報伝達は民主化、相対化された。
 学校・教育も同じではないですかね。誰かが一度に多数の人間に一方的に何かを教えるというのは、民主化、相対化された。無料で、質の高い海外の一流大学の講義動画なんか、いくらでもみられるわけです。今後必要になるのは、先生でなくて伴奏者なのではないかなと。講義動画なんかも含めて、大量の情報から個人にとって必要な情報を抜き取ってきて、有機的に相互接続して、知的生産につなげていく。その時に、力になってくれる伴奏者です。いくら情報がタダでも、情報を用いて生産するときは、方法論で解決できない問題が次々出てきますから。

知的生産のための四次元ポケット

鵜川 それって、生徒だけじゃなくて、一学習者である僕個人としても痛感するところです。情報収集がすごく簡単になっているからこそ、質の良い情報にどうやってアクセスするか、それらの情報をどのように蓄積するか、更には、価値あるアウトプットに結びつけるにはどうすればいいのか、というところが重要だし、とても難しい。
 この中で言うと、一番苦労しているのが「蓄積」かな。基本的には、手帳やクロッキー帳を使っているんだけれど、インプットの量が過剰なので、まるで追いつかない。本で読んだ情報は、振り返って残すようにしているけど、ネットで得た情報は、クリップだけしてほったらかしになってるものだらけだわ。
 矢口君は、情報の蓄積にせよ、そこからの知的生産にせよ、何かコツみたいなものって、あったりする?

矢口 僕はこの半年ぐらい、Roam Research(ロームリサーチ)というアプリケーションを使って蓄積を行うようにしています。詳しい説明はリンク記事を見てもらったらいいと思いますが、アプリの中で次々にページを生成して、メモを取っていくんです。このアプリのいいところは、ページ間の相互参照がごく簡単にできるところです。Daily Notesといって、日々の作業や読んだ文献についてまとめるページも作れますし、気になった論文や文献、記事があったら、別に相互参照を張ったページを作って、いつでも参照できるように内容をまとめています。ページは相互参照の鎖で、ネットワーク状にまとまっていくので、web上の大量の情報を処理するにはもってこいです。何より発表資料を作ったり、なにか文章を書いたりするときに「この前読んだあの論文どこにあったっけ」と探し直す時間が無くなりました。

鵜川 なにこれ、すごいね! ネットで得られた情報やら、OneNoteに書き散らしたメモやら、収拾がつかなくなっていたけど、これは、もしかしてめちゃめちゃ便利なのでは? インプットとアウトプットが、相互に補完し合ってくれれば、創造性にも繋がっていくし。
 Roam Researchの紹介を読んでいて改めて思ったけど、学びにおいて重要なのは、情報を得ることではなくて、その情報を相互に繋いでいくことなのよね。暗記することが重要なのではなく、覚えた情報同士が頭の中で新しいリンクを結んでいくことが大きな意味を持つ。その補助として、Roam Researchが機能してくれるなら、学び方も変わってくるよね。創造的リサーチとでも言えばいいのかな。整理されたボックスに情報を放り込んでいくんじゃなくて、ドラえもんの四次元ポケットに入れていく感じ?

矢口 文章を書きながら情報収集する、その逆も然りという感じで、アウトプットとインプットの連鎖反応が起こせるんです。ブラウザのブックマークみたいに既存の引き出しに入れていくというのとは違って、情報を集めた段階では、どこに入るのかはまだわからない。四次元ポケットなのかもしれません。
 Roam Researchを使っていくうちに気づいた面白さは、一つには、何気なくつくった相互参照の鎖から、意図せざる関心の類型が浮かび上がることですね。例えば関連性のある読んだ本同士で相互参照を張ったとします。他にも関連性のある本が出てきて、それらの本をまとめたページを作ることにした。そこで名付ける必要が発生するんです。「一体これらの本を結びつける共通項は?」と。共通項を考えることで、自分が何に関心があるのか理解する助けにもなります。
 今一つ面白いところは「主体の抹消」、「個の抹消」と僕が勝手に呼んでいる現象が起こることですね。面白かった記事、本やお気に入りの著者について書き込んでいっても、そうした情報の重要性はRoam Researchでは低くなるように感じます。むしろそうした本から伸びる相互参照のネットワーク、本を扱った読書会や発表、それらを束ねる共通項の方が重要になってくる。多分学びにおいて、暗記した情報そのものが重要でなくなってきたことと符合しているだろうと思いますが。

鵜川 「主体の抹消」「個の抹消」というのは、面白い視点だね。僕自身、SFを書く時に、それと近いことが起きている気がする。というのも、SF的なガジェットなり設定なりを作る時に使う科学的な情報って、そのまま使うことはあまりなくて(これは人によると思うけど)。もちろん、アイディアの起点になる情報はあるにはあるんだけど、それと関連する研究を調べたり、過去に収集したネタを参照したりしながら、それらの情報を、それこそ網を編むように繋ぎ合わせていく中で、コアとなるアイディアが固まっていく。で、それをストーリーに落とし込む時には、ほとんどの情報が原形を留めていないんだよね。
 こういう作業をしている時、一番楽しいのは、一見すると関係なさそうな分野の情報が結びつく瞬間だね。そこから、一気に網が広がって、それまで繋がりそうもなかった事柄まで、絡めとられていく。研究にも、きっとそういう瞬間があるんだろうな、と思うよ。

矢口 一見、関係なさそうな分野の情報が結びつく瞬間、が楽しいというのは、SFを書くのも、研究も一緒でしょうね。特に横断的な何かをやりたいと考えている場合には。僕も文芸部にいた時はSFを書いていたのに、実はここ数年創作からは遠ざかってしまっていて。でもRoamを使ってアイディアを結びつけながら書くというのは面白そうです。創作のリハビリになりそうですし、何かあるテーマについて考えたい、という時に、いい刺激になる気がします。僕の場合、元々、何かを考えるために小説を書いていた節があるからかもしれませんが。

鵜川 SFプロトタイピングっていう考え方があって(『インテルの製品開発を支えるSFプロトタイピング』という本に詳しく書かれています)、例えば、新しい技術を用いた商品を開発するとなった時に、その技術が広まった未来について、SF小説を書くように発想を広げることによって、リアリティある形で未来をイメージし、そのイメージを実際の商品開発にフィードバックする、という手法です。

 SF小説って、思考実験的な部分もあるので(SF=Speculative Fictionなんていう見方もあるしね)今の矢口君が書いた小説は、すんごく興味があるわ。

矢口 SFプロトタイピングは聞いたことなかったですが、思い返せば、僕の好きなSF小説家、バラードもそんなようなことを書いていました。未来について想像することで、現在の生活へのフィードバックをもたらすのがSFだし、古来人々はそのようにしてきたと。だからこそただ漫然と遠未来・外宇宙を扱うのはあまり意味がないって。僕にとってはどんなフィードバックがあるんでしょうね。書き終わるまで自分でもよくわからないのが面白いところです。アウトラインについていい加減な学び方しかしなかったせいもあって、僕、小説を書くときに、全然アウトラインの通りに進まないので。書き終えたら共有しますね(笑)。

鵜川 それは絶対面白い! 気長に待つので、ぜひ(笑)。
 今回は本当にありがとうございました。また、楽しい話をしましょう!

矢口 陽二(やぐち ようじ)
鵜川 龍史(うかわ りゅうじ・文芸部顧問/小説家)

(前編はこちら↓)

※ 対談中で触れたSFプロトタイピングについては、対談後、以下の書籍が刊行されました。いずれも、オススメです。

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