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自己分析をする過程で感じた、①堀江貴文氏のキンキンな先見の明②情報技術の進展がもたらす「デジタルデバイド」と、社会階層の固定化に対する懸念





以前、作家で社会学者の古市憲寿氏が、

「令和における最大の革命は、情報技術の進展における、デジタルアーカイブ技術の発展と、それに伴う人間の記憶容量、思考容量の加速度的拡大だ」

的なことを、文藝春秋でおっしゃっていた。

当時は意味が理解できなかったものの、今日、
ES修正と、それに伴う自己分析をする過程で、
彼の発言が私にとっては真であることを確信した。

なぜならば、スマートフォンの普及により、基地局を立てなくとも、世界中にスマートフォンがばら撒かれ、

生まれた国と地域という「属性」や社会構造上の欠陥に起因する機会格差を離陸して、
アフリカ、東南アジアをはじめとした、
世界中の人が、世界最先端の情報と知識にアクセスする。

しかも、そこで得た知識を保存したり、発信したりすることで得た知見は、
GAFAMや中国のGATTと呼ばれる、巨大ITプラットフォーマーに勤める知の巨人たちが発明したクラウドの誕生により、指数関数的に増える。

(指数関数とは、2^xのように、
線形的にではなく、ある変曲点(キャズム)を境として、爆発的な成長曲線を描く変化の様相を指す)

人は、それら知見を、クラウドに「外化」することにより、脳内のキャパシティともいえる、知的生産に用いる余力を確保して、新たな思考をすることができる。


このことを自身の自己分析に当てはめると、

•Twitterでの600にわたる投稿。
→140文字×600=84000字分の内省

•Facebookでの発信内容
→約1000文字×10投稿=10000文字分の内省

•noteでの発信内容
→約、30投稿以上??数えてない

•500日以上続けた日記の内容

•2016年から撮り溜めた写真での記憶
→約3000枚以上

•Rettyで投稿した、189件での飲食店での食事の風景、その時の味の記憶

•Instagramで投稿したストーリーのアーカイブ

などは、すべて、スマートフォンたった1台の存在だけで、
時間」と「場所」という、
二大制約から離陸して、常にアクセスできる。


その一瞬、一瞬における、自身の所作の
一コマに、

自分が生きてきた足跡があり、

感情の機微があり、

その総体としての、日々の意思決定や、それに伴う行動があり、

その積層としての、人間関係の構築、
そして、轍たる、現在のキャリアがある。


ということは、スマートフォンのソフトウェアが市場を食い尽くす可能性のあることに対する危機感と、備えという初動の速さを認知できる者

また、クラウドの技術の可能性を
「知った上で、アーカイブを溜め続けて、うまく活用する者」

と、そうでない者との間では、


就職活動の1年が経過した時の、

「自己分析における深掘り度合い」

に、文字では表現できないほどの「違い」が見られる。

ここで、「差」ではなく、「違い」と表記したことは、別に、どちらであろうとも、正解、不正解や、優劣といった、縦方向での序列は存在しないからである。


自身としては、これら科学技術の恩恵を最大限享受することの効用を理解して、行動する立場をとるが、そうでないからといって、その方が劣っている、間違っているということは、「価値相対主義」の立場をとる以上、「絶対に」あってはならない。


しかも、10年単位で繰り返される、4G→5G→6Gという情報通信革命は、そのデジタルデバイドを、さらに広げることが予想される。


まさに、

①フランスの社会学者である、ブルデューが提起した、文化資本格差の発生

②上記で指摘したような、情報リテラシーの格差

③情報リテラシーの格差が引き起こす、「希望格差社会」と、それに伴う、経験蓄積総量の格差

(なお、ここでの希望格差社会は、中央大学教授で、家族社会学の権威であり、かつ、「パラサイトシングル」という概念の生みの親でもある、山田昌弘氏の表現を借りる。

そして、経験蓄積総量の格差とは、ブルデューが提起した「文化資本」における、制度化された資本たる学歴や職歴、職務専門性(医者や弁護士、公認会計士、司法書士などをはじめとした、高度知的専門職)や、

日々の日常生活における所作の総体を指す、ハビトゥスという概念のことを指すように、自身は考えたので、その意味では、非常に再帰的である。

なぜならば、文化資本の多寡が、巡り巡って、もう一度文化資本の格差に近い状態を生み出し、社会学で指摘される、「再生産理論」と近似しているからだ。)

④資本主義貨幣経済というルール内部における経済格差


という、4段階における格差の構造へと、
格差のベクトル(向きと大きさ)が
変容していくと、捉えることはできないだろうか。


すなわち、この格差モデルを仮定した場合、
最も根源的かつ、優先的な改善策は、

「スタート地点における不平等」として、発生する、「家庭における文化資本」の多寡を、

いかにして、学校教育の充実という、
「分厚い公助」の拡充によって、克服できるか、である。


しかしながら、現在の日本政府の財政状態は、非常に危うい。債務残高の対GDP比は、ギリシャに追随すると言っても過言ではない。
(少し前のニュースから仕入れた情報であり、最新の情報でない点に留意されたい)

それにより、「公教育」という、最も、市場の論理から離陸し、中長期的な視点で判断せねばならない対象に対し、

•生産性
•効率性
•成果主義

といったような、ビジネスにおける論理を貫徹するような、「財政至上主義的」な姿勢が、教育の世界で散見される。

私が知る限りにおいて、その際たる例が、経営共創基盤の代表を歴任し、日本の経営コンサルタントとしては、圧倒的な知名度、権威、支持を、ビジネスセクターから得ていらっしゃる、冨山和彦氏が過去に提起した、教育改革の内容である。詳細は記事や、自身の検索エンジンでのインプットに委ねたい。

このように、教育の現場にも、資本主義貨幣経済と、その根底にて重力を発揮する市場の論理がら影を落としている。

私は、この冨山和彦氏の教育改革案については、真っ向から苦言を呈したいが、彼が

「日本という国家の経済的発展を最優先に考え、熟慮し、全体最適を取った上で、何がこの国の行く先として適切か否か」

を、脳がちぎれるほど考えた結果、上述の記事における記載のような回路に陥ってしまったことは、しょうがないとも言える。

それは、本来であれば、教育という、「市場の論理」から逸脱して施行しなければならない領域の課題に対し、

ビジネスの世界に軸足を置きすぎたことによる思考の癖が、ある種、悪い形で出てしまったということにすぎないと思うからである。


このような格差の現況を俯瞰した上で、最後に、堀江貴文氏のYouTube動画を紹介して、本noteの筆休めをしたい。

つい最近視聴した堀江貴文氏の動画において、

彼は、

•情報リテラシーを高め、自分で沢山の情報をシャワーのように仕入れ、
世界のリアルを「定量的に」正しく捉えた上で、自分の頭で考えること


•常にオープンであり、行動し続けるために、過去に執着せず、未来を恐れないこと


•共同幻想による悪癖から離陸して、自分の熱中できるものをとことん追求すること


の大切さを説いていた。

しかも、日本最大規模の卒業式における祝辞や、NewsPicksという、日本のビジネスパーソンが最も視聴すると言っても過言でない
経済メディアの1発撮りのFirst Takeにおいて、

なんの資料も見ずに、「彼のフィルター」から
切り込んだ社会の実像を、まるでタカのような鳥瞰的な視点で、「自分のことば」で語っていた。

彼がその営為を、呼吸するかのようにできることにこそ、彼の、膨大な、デジタルアーカイブ技術を活用した情報に対するインプットとアウトプットの往復と、

それによって成立する、彼独自の社会を切り取る刀、羅針盤、規矩が生まれ、

それが、専門文化された知の共有を加速度的な速さで可能にし、架橋して新たな価値を生み出すという、令和時代のニューノーマルが宿っている。

これを、彼は過去の著書「多動力」においても、同様な指摘を加えていたように記憶している。

(規矩とは、詳しく定義すると、ものを見る見方であり、村上陽一郎氏の「改めて教養とは」を参照されたい)

なおかつ、彼が、ライブドアを創業して、テレビ局の買収や、球団の買収といった形でマスコミを騒がせた20年以上前、


彼はすでに、DXの本質を見抜き、次に到来しつつある時代への布石を打っていた。

彼曰く、本当のDXとは、zoomやTeamsで、

「同期型のオンラインコミュニケーション」をとることではなく、

SlackやMassangerといったソフトウェアを駆使することによる、
時間と距離という2大制約の壁を超越した、「非同期型オンラインコミュニケーション」

の、日常生活、ビジネスの両面における浸透と、それにともなう、人々の、皮膚感覚レベルにまで浸透することによる、行動の変容。

その変容が集合され、束になることによって成立する、
爆発的な知•情報の共有における加速と、学問、産業、行政、アカデミアなど、「壁を溶かした」オープンイノベーションである。

その取り組みの萌芽は、大阪大学大学院人間科学研究科を修了された西村氏が主宰する、NPO法人ミラツクにおける、共創型の新規事業立案ワークショップなどにも見られる。
(ミラツクについては、下記のリンクを参照されたい。)

ここで筆休み程度に、反証を加えたい。
もちろん、技術「のみ」が世界を確信するのではなく、その背後に通底する、目に見えない、定性的かつ非定量的な社会規範、共同幻想との掛け算により、社会革新は進む。

すなわち、かつて、ダニエル•ベルが唱えた
「工業化社会論」
=科学技術の進展「のみ」が社会を変える原動力となり、人文科学、社会科学の蓄積は、その進展においては副次化、2次化されるという考え

の現代社会的応用は、「一面的な認識」に
すぎないということが指摘できるだろう。


さて、筆休みは終わりにして、幕引きへと急ごう。

それは、今回のコロナ禍パンデミックに伴う
生活様式の変容が社会を変えた以前から、

世界のとんでもない知、技術の巨人がzoomを生み出し、Googleやマッキンゼーをはじめとする、社会のアーリーアダプター

(詳細は、Start with Whyを参照願いたい)

が、それらを駆使して知的生産を行っていたことが何よりの証拠である。



自己分析の過程で、ここまで情報技術のもたらす恩恵の凄さと、ホリエモンのキンキンの先見の明には、驚かされるばかりである。

そして、デジタルデバイドがもたらす、資本主義社会における階層の固定化、貧困の再生産は、緊急的に是正されるべき社会課題であろう。

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