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レスポンスは答えじゃなく反応なんだということをちゃんと知りましょう

今回から僕のこのnoteを「エッセイ」と呼ぶことにしましょう。正直エッセイというのがなんなのか分かってなかったのですが、wikipediaによれば

随筆(ずいひつ)とは、文学における一形式で、筆者の体験や読書などから得た知識をもとに、それに対する感想・思索・思想をまとめた散文である。随想(ずいそう)、エッセイ、エッセー(仏: essai[1], 英: essay[1])などともいう。「essai」の原義は「試み」であり、「試論(試みの論文)」という意味を経て文学ジャンルとなった。

なるほど。こう考えるとまさに僕のnoteはエッセイじゃないですか。なのでエッセイと呼ぶことにします。

どうもこんにちは。稲本です。福岡でコミュニケーションや情報伝達に関わる仕事をしています。エッセイストです笑。よかったらツイッターのフォローやこのnoteのフォロー、スキをお願いします。

今日はレスポンスに関して書いてみます。以前、レスポンスすべきは答えではなく反応だという話を書きました。

今や、世間はいそいそした空気が漂う世界になっています。誰でもいつでも連絡が取れる環境になってしまい、いわば「反応に追われる社会」と言ってもいいでしょう。

ここは残念なことではありますが事実ですし、なんともまぁ世知辛い世の中になったものです。この状況に抗うには、もう時代は便利という言葉の元に進んでしまっており、状況を受け入れるしか方法がないと僕は思っています。もしくは、世から離れどこか離れたところで住むしかないでしょう。

つまりはそんな世知辛い世の中、世知辛いタイムラインの中で僕らはどう生きていくかです。具体的には、高いレスポンスが求められる中でどう振る舞いますか?という話です。

何度もいいますが、そこに必要なのは答えではありません。反応です。

打ったら鳴った

という状況を作ることが相手に対していいレスポンスであることは間違いありません。一番ダメなのは、無言です。

こんなことがありました。

あるオンライン会議で機械トラブルか操作トラブルかで接続がうまくいかない状況。そんな中仕切っていた人が無言で設定をすすめるのです。周りはどういう状況になるかというと、止まっているのか、復旧しようとしているのか、もしかしたら自分のところだけがおかしいのか・・などなどいろんな不安要素を感じ、さらにいつまで待ったらいいのかさえもわからなくなる。

オンライン会議で相手の顔をみていると、間違いなく「不安」になった顔つきや目線が見えてきます。そしてそれが続くと「不安」が「不満」に変化していくことも見えてきます。

約一年前ですが、「ポジティブに待ってもらう」というテーマでこんなことも書いていました

これもレスポンスです。状況に対するレスポンスで答えだけを出そうとすると相手を待たせ、そして自分を追い込む形になります。そうではなく、状況に対するレスポンスを「反応」という形で応えればいいわけです。

反応というレスポンス、是非試してみてはいかがでしょうか?

もし気に入ってもらえたら嬉しいです。情報の発信とコミュニケーションについていろんなチャレンジをしていきます。どうぞよろしくお願いします!