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魔法の靴⑥バイトが決まって失言したようです!

2月半ば。香奈恵の仕事はまだ見つからないが、靴は完成した。

工房の扉を開けるとき、香奈恵は少し緊張した。前回の別れ際の気まずい雰囲気を誠一が引きずっていたらどうしよう。

でも、陽気な笑い声が工房の奥から聞こえた。続いて「いらっしゃい」という朗らかな声。白髪交じりの剛毛が豊かで眉が太い、初めて見る男性だ。顔も小柄な体も固く締まって、たたくとカツカツと音がしそうだ。隣で、背が高い誠一が、わずかに身を屈めて柔らかく微笑んでいる。

「こんにちは。お邪魔します」。明るく挨拶し、香奈恵は扉を閉めた。

「これ、師匠」と、誠一が男性を指さす。よかった。声に先日の苛立ちは残っていない。

「真下志朗です。よろしく」。男性が頭を下げたので、香奈恵もお辞儀を返した。

誠一が、背後のテーブルから、ボール紙のシューズボックスを取り上げた。香奈恵に向かって蓋を開けてみせる。入っているのは、黒いローファーだった。誠一の右手が片足ずつ取り出して、丁寧に床にそろえる。

かわいい! 胸が、きゅんと跳ねた。

爪先が、心惹かれるカーブを描いて丸い。履きこみが深いデザインは、親しみやすいのに、澄まし顔の風情も備える。ヒールの高さはほとんどないのに、女らしい。カジュアル、かつ、上品。マニッシュ、かつ、優雅。

仮縫いの時と、靴の表情が全然違う。こんな靴、初めて見た。

「履いてみて。いちおう師匠のオッケー出たから、それなりの完成度だと思う」

低い声が、誇らしげに弾んでいる。

香奈恵は、仮縫いの時と同じように、そうっと足を差し込んだ。

靴は、するりと足を受け入れ、しっかり受け止めた。柔らかくしっとり包み込む感触は……

「気持ちいい!」

香奈恵は叫んだ。自然に足が動く。足踏みをして、くるりと回って、戸口まで早足に歩いて戻ってみる。

靴が、足を前に進めてくれるかのようだった。

「どこまででも歩けそうだよ」

香奈恵は足踏みし、自分より高い位置にある誠一の顔を見上げた。

「ちょっと失礼」

真下がすっとしゃがんで、分厚い右手の手のひらを香奈恵の足に押し当てる。あちこち押してみて、深くうなずいた。

「いい出来だ。誠一」

誠一は、頭をぽりぽり掻いた。

香奈恵は、軽い足が不思議で、何度もくるくる回った。靴はどこまでもついてくる。履いていないみたいだ。むしろ履いていないときよりも足が楽に感じる。魔法の靴みたいだ。

「……あっ」と気がついて止まる。「これ、おいくら?」

「代金は、もう前払いでもらった。拓也の彼女からのプレゼントだろ?」

「でもオーダーメードだし、けっこうするでしょ? やっぱりあたしが払わなきゃ」

「オレは見習いで、一人前の工賃はとれない。材料費プラスアルファでやらせてもらった。値段は言わない約束してる。拓也の彼女に、お礼はしっかり言っておけよ」
誠一は短く笑った。

「で、仕事、決まった?」

ああ、そのつっこみは、やめて。香奈恵はしゅんとなって下を向いた。
「まだ」

「そうか。やっぱりな」。からっとした短い笑い。

「は? 喧嘩売ってる?」

「お、元気が出た」

 香奈恵は唇をかんだ。誠一をにらみつけてやる。ニヤリと笑いを返された。

「オレが働いているショップで、バイトの空きが出たから、紹介しようか」

「バイトぉ?」

「イヤそうな顔をするな。あの会社は、最大手の靴製造販売業者だぞ。技術者以外、誰でもまずはバイト採用なんだ。出来がよけりゃ正社員になれる」

「でも、あたし、事務職狙いなんだけど」

「大した理由がある事務職じゃねぇだろ」。誠一はひらひら手を振ってかわす。「そろそろ失業手当、切れるんじゃないの」

「くっ……詳しいね」

「まあな」。また、短く笑われた。「仕事は給料をもらうためなんだろ。事務とか、選んでいられる余裕があるのか?」
誠一の余裕たっぷりの笑顔が憎らしい。

たしかに、バイトでも探さないとやばいと焦っていたところではある。香奈恵は腕を組んだ。

うーん。まったく知らない人ばかりの職場よりは、顔なじみの誠一がいてくれたほうが、仕事に早く慣れるかも……あたし、人見知りだし。なにより、バイトを探す苦労をしなくても、ポジションが一つ、口を開けて待っているわけで……

そりゃ、乗るしかないか。

そういうわけで、香奈恵は翌週、誠一が働いているシューズショップ「クッカ」の面接を受けた。質問は定番のものばかりで手ごたえはない。その夜、香奈恵のスマートフォンが鳴り響いた。クッカの番号だ。おそるおそる電話に出る。

「クッカ本店の佐藤です。今日はどうも。で、いつから来られますか?」
あっけない採用の通知だった。香奈恵は小さくガッツポーズをした。

電話を切ったその手ですぐ、誠一に報告のLINEを送る。「採用されました」

即レスが来た。茶色いクマの「いいね!」のスタンプ。続いて緑の吹き出しが現れる。

「そのうち楽しくなるんじゃね? 紹介したオレ様の顔をつぶさないよう真面目にやれ」

最後の一文はひっかかるが、胸に暖かさが広がる。

あ、そうそう。香奈恵は思い出して、もう一人にLINEを打った。宛先は希美だ。「仕事決まった。バイトだけど覚正さんの紹介で、シューズショップの販売。正社員への道もありそう。拓也くんに、お礼よろ!」

すぐにシマエナガの「いいね!」のスタンプが来る。なんという即レス。待ちかまえていたみたいだ。

「おめでとう~(はぁと)! シューズショップ、『はじめの一歩』って感じだね。お祝いしよう! 大学院の卒業演奏会が終わったら、2人の就職パーティーね。卒演、来週だから来てね☆」

はじめの一歩。その文字を見ると、誠一の低い声が耳によみがえる。

「靴は、人生のパートナーなんだ。足にあう靴は、足だけでなく、気持ちも前に進めてくれる」

はたして、シューズショップ「クッカ」の仕事は、香奈恵の足にあうだろうか。

オーボエの音色は細い。フルートやトランペットに比べれば華やかさに欠け、はっきり言って地味だ。もし幼馴染みの希美が専攻しなければ、クラシック好きでもない香奈恵は一生、オーボエの音を知らないままだったろう。

でも、いったん存在を知ると、オーボエの旋律は耳にするすると染み込んで豊かに広がり、ときにユーモラスに何かを訴えかけてくる。聞いていると、体が軽くなる。

その感覚は、何かに似ている。さりげなく寄り添って、すうっと体に染み込んで、優しく前に促してくれる感じ。

ああ。音大のホールの客席で、香奈恵は足元を見下ろした。この、誠一が作ってくれたローファーを履いた感覚に似ている。

舞台の上の希美は、薄い藤色のホルターネックのシフォンドレスに身を包み、目を閉じて、ゆったりと体を揺らして黒い木の筒を操っている。動くたびに、筒の表面を彩る銀色の金具が、照明を反射して輝く。

希美の表情は、満ち足りたようでもあり、手が届かない何かを強く求めているようでもあり、きらきらと変化していく。見たことがないくらい綺麗だ。

「オーボエは、始まりの楽器なんだよ」

いつだったか、希美が誇らしげに言っていた。どういう意味だったっけ?

最後の音を丁寧に吹き終えて、希美はオーボエを口から離した。ゆっくりと目を上げ、客席に笑顔を見せる。

その視線が、香奈恵の胸を貫いた。

客席を通り越して、はるかかなたを一直線に見つめている。夢に向かう道を見据えて揺るぎない、決意に満ちた瞳。

香奈恵より小柄な希美が、とても大きく見える。

希美は丁寧にお辞儀し、伴奏のピアニストと握手して舞台袖に去った。

白い背中が、まぶしい。 

「私たち、おめでとう~。2人の未来に乾杯」

小ぢんまりした家庭的なイタリアンで、希美はシャンパンのグラスを香奈恵のグラスと軽くあわせた。

香奈恵は、素面のうちに言っておかなくてはならないことを思い出した。
「希美、ありがとう」

「なに?」と、希美が首を傾げる。栗色の巻き毛が揺れる。

「これ、これ」。香奈恵は椅子の上で身をよじり、テーブルの横の通路に足をつきだした。希美が動きにつられてのぞき込み、目を丸くする。

「誠くんの靴か。ローファーにしたんだ。かわいい!」

「そう。かわいいし、すっごく履き心地がいいの。びっくりした。歩くのが楽しくて仕方ないの。ありがとう」

「へぇ、よかった。靴ができて、シューズショップの仕事も決まって、いよいよ歩き出すぞ! って感じだね」

「うん」。頷いた香奈恵の頭は、なかなか上がらない。

歩き出すぞ! 靴を履いて、どこかに向かって。どこか遠くの、夢を目指して。

でも、あたしには目指す夢が見つからない。

「せっかく夢を目指す権利を与えられた恵まれた人間が、最初から権利を放棄するなんて」
連想ゲームみたいに、あの日の誠一を思い出した。青白く固まった顔。震える声。

ようやく顔を上げた香奈恵の戸惑いに、希美は敏感に反応した。
「どうしたん?」

「うん。あのさ……実は、この靴を作ってもらっているときにね」
香奈恵は、仮縫いの日の一幕を、かいつまんで説明した。

「あたしには夢がないって言ったら『最初から諦めるなんて、死んだヤツに失礼だろ』って怒られて。つい『だれか死んだ人がいるの?』って聞き返しちゃったの。そうしたら、覚正さん、黙っちゃって。ねえ、覚正さんの回りで、だれか亡くなった人、いるのかな?」

「お父様は亡くなってるよね」と、希美は即答した。

「あ、そうか」。香奈恵は思い出し、反省する。五年前に父親を亡くしたと聞いていた。あたし、無神経なこと言ったわ……

でも、希美は顎に人差し指を当てて、言葉を続けた。

「ただ、その流れだと『死んでしまって夢を目指せなかった人』だよね。そうすると、お父様じゃないかも」

「え」。香奈恵は目を見張る。

「お父様はビストロカフェをやっていて『地元じゃ有名なお店だった』って拓也が言ってた。夢を目指してたというより、かなえた人じゃない? 『死んでしまって諦めざるを得なかった』っていうと、もっと若いときに亡くなった人かなって」

「なるほど」。香奈恵はうなずいた。あのとき、たしか子供の頃の非現実的な夢の話から始まった。年下のだれかの話と考えたほうがすっきりする。

希美はエビとアボガドのバジルソース・スパゲティを飲み込み、口元をペーパーナプキンで押さえて言った。

「気になるなら、拓也にそれとなく聞いてみるね。香奈恵は誠くんと同僚になるわけだし、会話で地雷を踏まないように、知っておいた方がいい話かもしれない」

「そうしてくれると助かる」。香奈恵は春キャベツのペペロンチーノを口に入れ、唐辛子の固まりをフォークで一緒に巻き込んでしまっていたことに気づき、たじろいだ。

数日後、希美からLINEでなくメールが届いた。

「この間の話、多分これ? っていうことがわかりました。他の人には言わないでね」

文面を読み進み、香奈恵は生唾を飲み込んだ。

「誠くんっていうか覚正さん、弟さんがいたそうです。5歳の時に事故で亡くなったんだって。当時、覚正さんは高校1年で、年が離れていたけれど評判の仲良し兄弟だったそうです。拓也によれば、弟さんが亡くなって、誠くんは見ていられないくらい悲しんでいたって。医者を目指して県でトップの高校の理系コースに進学したのに、結局、大学を受験しないで家を出てしまったのだそうです」

スマートフォンを持つ手の力が抜ける。

死んでしまって夢を目指せなかった人は、本当にいたんだ。そして誠一は、弟を亡くすまで、靴職人でなく医者を目指していたのか。

「だれか、死んだ人がいるの?」

あの日の香奈恵の言葉は、どのように誠一を刺したのだろう。返信を忘れて、香奈恵はスマートフォンの電源を切った。

(続く)

#創作大賞2023 #連載小説


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