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完璧主義と減点評価が幸福度を下げる

YouTube動画を作っているときに、ふと思ったことがある。私はとても適当な人間である。それなりに丁寧に動画を作っている自覚はあるのだが、毎回、間違いやもっとこうした方がいいという細かな指摘をコメントされる。それ自体はとてもありがたいものだし、細かく見てくれている証拠だからうれしい気持ちもある。ただ、自身がコンテンツを作っているときに、大事している感情は、それ自体を楽しむことであり、ミスのない完璧なコンテンツを作ることではない。かといって、異なる事実や誤解を与える不利益なものを掲載するわけにもいかないから、最低限、ここは気を付けようと思っているところは注意を払うようにしている。
 
時間の余裕がなくて、人の動画を見ることはほとんどない私だが、人の動画を見ることも少しはあり、その時に最初に考えるのが、このコンテンツは製作者が楽しんで作っているか、ということだ。完璧なもの、精度の高いものであるかよりも、作り手がそれを好きで、楽しんでいるかの方が気になってしまう。間違いを指摘して喜ぶ人にはこの気持ちはわからないかもしれないが、コンテンツを作る側になると、こういう観点、製作中の場面を想像する観点で、そのコンテンツを見てしまう。
 
逆に、コンテンツのミスや適当な部分については、ほとんど気になることはなく、自分で調べたり知識を補完することで疑問を解消できるし、少しくらいわかりにくい方が自分であれこれ調べて余計に詳しくなれるからむしろ良いと思っている。
 
普段の労働でも同じことがいえる。学校教育で完璧なものが良いものだと洗脳されてきた私たちは、何でもかんでも、減点されないものを作ろうとするし、減点しようとして物事を見てしまう。
 
たとえば、一文字ミスがある書類、会議書類から履歴書まで様々だが、これを何百枚、何千枚と印刷しなおしたりすることを、正しい行動だととらえる文化がある。訂正の紙を入れるにしても、物凄い恐縮した詫び状が入っていたりする。個人的には、最終的に正しい情報を得ることができれば、特にその制作物にミスがあっても構わないし、わざわざ商品を取り換えたりする必要はないと考えているが、一般社会はそうではない。「申し訳ございません訂正版です」と差し替えることが美徳とされる。たった一文字だけのために、何千枚、何万枚、何億枚という紙を破棄してでも、他人の「粗探し」に打ち勝つことを優先し、減点主義を脱しない。それが今のこの国の文化だし、この世界の文化なのかもしれない。
 
このような訂正文化について、外国人が「それは資源の無駄じゃないか」と語る。こういう発言を耳にしたとき、自分の置かれている常識がいかに狂っているかを自覚し、やはり自分は社会不適合者でいいやと思ってしまう。
 
減点されることに慣れると、他人を減点することに疑問を持たなくなり、自分自身も嫌な人間になってしまう。だから私は会社員を辞めたいのだ。組織や集団が目指すものはいつも減点評価に基づく完璧主義であり、それは、二人きりで遊ぶ時は適当に店を探して放浪するのに、三人以上の集団になると、急に店の予約をしたり、混雑している中で慌てて店を探したりする焦燥に駆られるような場面にもみられるように、私生活でも群衆がもたらす完璧主義は現れやすい。
 
人から否定されることを恐れ、否定されないことが生きる目的になっている人をたくさん見かけてきて、そういう人間が会社文化の正義と見なされるから、会社文化に馴染もうとすることができない。正しさがいくら溢れていても、その人から幸福さが滲み出ていない。否定されるリスクに晒されるストレスを、他人を否定することで解消する人も多い。お客様は神様ですとブラック労働している人も、自分が客になると横柄になることがある。この悪循環を解消する方法はあるのだろうか。

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