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気を遣うのと我儘を言うのは別

遠慮のない関係を構築できることは、決して悪いことではないと思う。本音を言える人間なんて人生でそうそう出会うことができるものではないし、安心してかかわることができる人と出会える機会は大事にしたい。

ただし、遠慮のない関係が「我儘が許される関係」に置き換わることが往々にしてある。たとえば、最初は良好な関係だったものが、いつの間にか、親しさを冠した強弱関係に変わることがある。あるグループでの交友関係が始まり、フラットな関係から、声の大きな人がいつも暗黙の了解のごとく自身の身勝手に他人を巻き込むことが、残念ながら起こってしまう。

安心できる場面は決して「油断していい場面」ではないし「ないがしろにしてよい」場面ではない。安心できる環境を、安心できない環境に無理して迎合・適合するためのガス抜きにしてはいけない。そのためには、誰にでも同じ姿勢で対峙するしかない。

何かを優先することについて、別のものを犠牲にしてそれをやり遂げている場合は、その優先行為はやめたほうがいいと思う。余白や余力があってその優先を選択できるならば別だが、必死に食らいついているときは、何かしらの他のものを犠牲にしている。

たとえば私は仕事を頑張らない。必要なことはやるけれども、たとえば、経営者目線で、とか、管理職が気づけないことも率先して気づいて行動する、のようなことは絶対にしない。なぜなら、その余力を妻の様子を観察することに費やした方が遥かに人生にとって有益だからだ。私が会社に尽くしても、会社の人間は私に尽くすことはないし、私が会社に尽くしても、会社で働く個人の幸福にはつながらない。ただ、全員が我慢して構成する「組織」の体裁が多少マシになる程度であり、尽力する価値はないと思っている。

このように会社を優先しないことで、家庭を優先できる。優先すると考えることさえ必要なくなる。その分を、配偶者に対して、冒頭に書いたような「遠慮のない関係ながらも、相手をないがしろにしないように、尊重できるように」考え動く時間に少しでも充てる。これだけで夫婦関係は格段に良好なものになる。

本音を伝えることばかりを主張する人の中には、自分の我儘を通したいだけの人が多い。相手の選択や価値観を否定し、自分の方が正しいと主張するために「本音で関わろうね!」という人もいる。相手の本音を聞いた時、その人はそれをそのまま受容できるだろうか。本音でぶつかることは、決して唯一の価値観や結論を採択するための会議ではない。散りばめられた差異を楽しむための柔軟性を構築するための行為なはずだと私は思う。

なんでもぶつけて良い相手、ではなく、なんでも受け止めたくなる相手、として、配偶者のことを捉える余裕を常に持っていきたいし、そういうことを、毎朝の電車で考えるようにしている。

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