里奈子の冷たい太陽:ショートショート

永いあいだ、僕は夢を見ることがなかった。暗い夜が、ただ暗い夜のまま、過ぎてゆくだけだった。

久しく見ていなかった月を見た。満月だった。夜空にぽっかり穴が空いているよう。暗い洞窟に、太陽の光が漏れてくる。夢そのものだった。宇宙の外側が、片鱗を覗かせている。

とても眩しいくらいで、熱さえ感じられそうだった。真夏の残滓が、そこで燃え尽きようとしている。地上から追いやられ、消えゆく夏の香りが、そこに凝縮されている。

宇宙の外にあるもの。誰もが知りたがっているその真理を、僕は見た気がした。

そうして満月が映すもの、あるいは満月そのものが、夏の記憶だった。あと少しで感じられそうな、熱のない明かり。冬になってもありありと感じられる盛夏の日の記憶が、こごえて震える体を温めてくれると思いきや、少しも温めてくれないのと、似て同なるものだった。そう、似て非なる、ではない。似て同なる、なのである。

それはまた、夢でもあった。まさしく現実であるように思えるのに、現実が帯びているはずの熱が、ひとかけらもない、温かで冷たいもの。

久しぶりに夢を見た。闇のなかで、たしかに目に映るそれ。

「ねぇ、何考えてるの?」

隣を歩きながら一緒に歩いている里奈子が訊く。ふと、薄い雲にもやがかった月を見上げたのは、最初に彼女がそれを見て、綺麗なお月さん、と呟いたからだった。つられるように僕も見た。しかしあまりの美しさに、罪悪感がするりと心に忍び込んで、一瞥しただけで目を逸らした。

「そうだね」と僕は相槌を打った。そんなサバサバとした態度とは裏腹に、たった一瞬だけ目にしたにすぎない、月面に映えた晩夏の陽光が、まとわりつく汗のように頭から離れないまま、彼女の隣を歩いていた。

「なにも考えてないよ」

「ほんとに?」

「あぁ。ほんと。ぼーっとしてるだけだよ」

「ほんと?違う女の人のこと考えてなかった?」

ぎくりと緊張が背中を走る。なるほど、確かに今の僕の心の有り様それ自体は、前から向かって歩いてくる、今にもすれ違いそうな美女を見て、綺麗だ、と心の底では思いつつ知らぬ顔を貫いている男と何ら異ならなかった。

「まさか!」

と、自分でも違和の感じられる、妙に大げさな、不自然でぎこちない大根役者の棒読みみたいな受け答えに、彼女は何かを悟ってしまったよう。

最低ね、と繋いでいた手を振り払って解く。僕は思わず立ち尽くした。
逃げるようにそそくさと足早に歩いてゆく彼女の背に投げかけた。

「りな!勘弁してくれよ!」

「ほんとにボーッとしてただけなんだよ」

これはいかんと里奈子を追い越した。月あかりの白粉に化粧された彼女の面差しは、天然の顔料を駆使したフェルメールの描く絵画のごとく、とても明るいのに目を傷めつけない、むしろ却って、過度に膨張した微細な血の管を鎮める作用があるのではないかと思えるほど、みやびな気品に満ちていた。

太陽の内部は、表面よりもずっと熱いだろう。その限界点にある煉獄の熱に、形而上の無限が存在したとき、その内部のさらなる奥に潜む内部は、有限から無限へ移行する瞬間、あたかも数直線が負の数を加えられて初めて性質的に、ある一点、つまり零を境にして区切られるように、そこでは冷えゆく太陽の姿があり、月の表面を越え、大気を貫き、地上へ届き、里奈子の姿へ結晶するのだった。

時間が止まったように感じられた。

太陽の運命が白色矮星であり、白色矮星が冷えていくだけの星なら、形而下においても、太陽は冷えてゆく存在なのだ。それぞれ正反対の方へ同量ばかりか同質の力に引っ張られて、均衡している一点に僕は留められているのだ。

察するに、彼女は怒ってなどいなかった。いや、怒ってはいるが、どうやら理由が違うらしい。なにか僕に言ってほしい言葉があるようだ。

『月なんかよりも里奈子の方がずっと綺麗だよ』

と正解が思い浮かんだ。そのまま滑らかに喉を経由し、声にされるだろうと思ったのに、魔が差して口をつかなかった。時間差を伴って魔の正体がこくこくと現われ、恥じらいが芽生えたかと思えばもう死にたくなるほどの羞恥心が実るのだった。

茫然と立ち尽くしたままの僕を、どうやら里奈子は見限ったらしく、ふん、と声には出さないが頬を膨らませ、置き去りにした。

( ´艸`)🎵🎶🎵<(_ _)>