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企業の製造現場から、工科高校の先生へ。子どもたちと向き合い、それぞれの人生の道を一緒に模索する存在でありたい

「自分の人生をどう生きるかという視点を、子どもたちに届けたい」

そう熱く語るのは、大阪府立佐野工科高等学校で進路指導主事をしている赤穂遼さん。赤穂さんは教員になる以前、川崎重工業株式会社で製造管理の仕事をしていた。広大な敷地を行き交い、一日2万歩を数えることも珍しくない日々。そんなモノづくりの現場で、人と人とを結び合わせ、成果を上げてきた。

そんな赤穂さんがなぜ、学校の先生に転職したのか。そして、製造管理の経験が学校現場でどう生かされているのか、話を聞いた。


拗ねていた、社会人1年目

ーー赤穂さんは、先生になる前はどのような仕事をされていたのですか?

大学を卒業後に川崎重工業に入社しました。入社時の面接で、配属先の希望を第10希望まで聞かれ、工学部出身で設計の仕事がしたかった私は、1〜7番目まで全て設計に関わる部署を書きました。でも、蓋を開けてみたら、8番目に書いた製造管理の部署に配属されることに...。

そこで、拗ねました。誰が見てもあからさまに分かるように拗ねていたんです。その当時は、仕事を楽しむことができませんでした。

しかし、2年目に取り組んだ社内研究が転機となりました。今まで誰も手をつけていなかった未知の分野のデータ取りだったのですが、大変な苦労をしつつも最後までやりきり、結果良い成果を出すことができました。会社からも評価され、数千万円の投資を得ることができ、現場環境の改善に貢献できたんです。この成果が自信につながり、仕事がどんどん楽しくなっていきました。

お話を聞いた赤穂さん

ーーそんな赤穂さんが、どうして先生になろうと思われたのでしょうか。

製造管理の主な仕事は、実は人と人との調整なのです。上は60代、下は18歳の工員がいて、それぞれがそれぞれの部署の職人。特に私が担当した油圧部品やロボット製造の工場は、スペシャリストの集団でした。

製造管理の仕事は、一言で言えば「何でも屋」で、各分野のスペシャリストではありません。だから、毎日が対話と勉強の日々でした。職人の発想や使う言葉の意味を理解しつつ、彼らをうまくマネジメントしないと工場の生産性そのものに影響が出てしまう。常に人と向き合うことに、知恵と体力、何より心をつかう日々でした。

その中でふと思ったんです。これから技術はさらに進歩し、どんどん機械化や自動化が進むだろう。だからこそ、それを支える人の教育が重要なのではないか、と。そうしたら、学校の先生という仕事への憧れがじわじわと湧いてきたんです。

やがて、「一人ひとりとしっかり向き合い、その人に応じた人生との向き合い方を一緒に模索できる仕事、それは学校の先生である!」という結論に至りました。

ーー会社員として働きながら、先生になるための準備をされたのですか?

そうですね。私は、学生時代に教員免許を取得する課程を履修し終えていませんでした。そのため、2年計画で単位をそろえ、工業科の教員免許を取得しました。

その後、採用試験の勉強にも真剣に取り組みました。当時は結婚を考えていた時期でもあったので、それは必死でしたよ。無職で結婚という訳にはいきませんから。筆記試験の勉強も大変でしたが、苦労したのは模擬授業の対策です。教育現場の経験が全くなかったので、イメージが全然湧かなくて。幸い身内に先生がいたので見てもらいましたが、ダメ出しばかりで辛かったです。

先生になると決めたものの、同僚には転職の意向は伝えず、自分の中の極秘ミッションという位置付けで準備を進めていました。そんな中だったので、合格通知を受け取ったときは、とてもうれしかったですね。無職の新郎という最悪の状況も回避できたことですし(笑)。

でも実は、直属の上司にだけは、仕事を辞めて先生になることを事前に相談していました。初めは「人を育てるなら人事部の道もある」と勧めてくれていたのですが、その上司もかつて先生になりたかったということもあり、最後は応援していただけました。

初めは拗ねていた社会人デビューでしたが、そんな私を立ち直らせてくれた会社だったからこそ、退職する3月31日まで誠実に働こうと決めてやりきりました。

忘れられない先生デビューの日

ーー先生として第2のキャリアが始まったときは、どんなことを感じましたか?

実は、出勤初日から大きな失敗をしているんです。初日に新規採用の先生が一同に集められて辞令交付式があり、午後から配属校である佐野工科高等学校でオリエンテーションが予定されていました。

初日のスケジュールは、事前に聞いていたのですが、それが工場の中で受けた電話だったので、周囲の騒音もありしっかり聞き取れていませんでした。辞令交付式からゆっくり昼食をとって、少し周囲を散策しながら、「この町でがんばるぞ!」と気合いを入れて学校に向かいました。

しかし到着すると、教頭先生が玄関で仁王立ちされていました。最初は「出迎えがあるなんて親切だな」と思っていたのですが、応接室に入ると、管理職だけでなく同期の2名も明らかに機嫌が悪い。そこで私は「やってしまった」のだと悟りました。私はどうやら午後の集合時間を間違えて、1時間半も待たせてしまっていたのです。

そんなこともあり最初の1年は、待たせた一人ひとりの信頼を取り戻すために、とにかく必死に働きました。

ーーなかなか大変な初日だったのですね。

そうですね(笑)。そんな形でのスタートでしたが、現在は先生として働き出して6年目を迎えました。

現在勤務している佐野工科高校では、工業科の中の機械系に配属され、校務分掌として最初の2年間は教務部に配属。教務部では、学籍や時間割、定期考査に関わることなどを担当するため、最初の2年間で学校全体の仕組みについて知ることができました。

その後、担任をしながら生活指導部に入り、多様な子どもたちと関わりを持つことに。日々関わる生徒たちは、それぞれに悩みや課題を持っています。その背景には、その子だけではどうにもならない家庭の問題も絡んでいて、そこに寄り添っていくことの大切さを学びました。

授業をしているときの様子

4年目からは進路指導部を任され、6年目を迎えた2023年度から主事を務めています。将来を大きく左右する進路に関する話題は、生徒も不安が大きい。保護者も自分が学生時代の知識はあっても、今の進路の実情は知りません。だからこそ、その不安を取り除くことが大切だと考えています。

そのためにも、生徒や保護者の話をしっかり聞くこと、一人ひとりに合った情報を提供できるよう準備しておくことが大事だと考えました。その生徒がどんな業種に関心があって、どんな企業の見学に行ったか。現在は、そういったやり取りを記録として残し、学年職員と共有できるようにしています。やっぱり生徒、保護者、学校が同じ方向を向いて、進路決定を進めることが大切ですからね。

たくさんの生徒を担当する中で、実は教員1年目からほぼ毎年、私の前職である川崎重工業株式会社にも就職する生徒が現れてくれました。これは、素直にうれしかったです。

本校のある泉佐野市の企業は、本校の生徒たちや卒業生を受け入れてくれるような雰囲気があります。地元の人材を雇用しようという意識も強くあるので、そうした環境をうまく活用していきたいと思っています。生徒には、企業見学には積極的に参加するようすすめていますが、企業側にも生徒が仕事をイメージしやすいように「仕事内容をしっかり伝えてください、できれば体験もさせてください」とお願いしています。

その結果か、ここ数年求人倍率はどんどん上がっています。

一人ひとりの「自分の人生をどう生きるか」に向き合う仕事

ーー前職の仕事と、今されている先生の仕事を比べると、どんなところが違うと感じますか?

前職では、 現場の管理に全力で向き合っていました。でも、工場で作られた製品がお客さんに渡る瞬間を見ているわけではないので、自分が関わった仕事がユーザーにどう評価され、どんな影響をもたらせているのかについてはあまり見えていませんでした。そのため、私は現場の職人さんが幸せに働けることを心がけて仕事をしていました。

幸せを考えるという点では、学校の先生という仕事も共通しています。学校と工場が違う点は、生徒と保護者が自分の目の前にいるということ。そのため上手くいけば、自分のパフォーマンスの成果が生徒たちから分かりやすく伝わってくるので、そこはやりがいにつながります。でも同時に先生は、責任が大きい職業でもあるとも感じます。

また工科高校には、私の所属する機械系だけでなく、電気系など複数の専科があります。科を超えて調整を図っていく点では、製造管理での経験が生きています。スペシャリストの間に入って、日々の生産を円滑に進めていくためには、対話が重要。工場にいた頃は、相手に合わせて何をどうやって伝えるかで試行錯誤を繰り返していました。

先生は人と接するプロだと思っているのですが、その土台を企業で養えたことは大きな財産です。

ーーかつては転職はネガティブなイメージを持たれましたが、生徒たちが生きるこれからの社会では、転職ありきのキャリアも当たり前になっていきそうですよね。

私は、転職は自分の人生において、その時々にやりたいことを実現する手段だと考えています。ですので、転職は決してネガティブな行為だとは考えていませんが、生徒たちには、「お世話になる企業を踏み台にしてほしくない」と伝えています。

企業側も、長く働き続けてほしいという覚悟を持って採用しています。だからこそしっかりと結果を出すことに一生懸命取り組んでほしいです。それができないと、仮に転職したとしても成功できないと思います。

私は「先生を辞めたら、求人票をもらいに来ます」と、前の職場に言って退職しました。冗談か本気か分かりませんが、今でも「いつでも戻っておいでよ」と言ってもらえます。素直にうれしいです。人は一人では生きていけません。だからこそ、人との対話が必要であり、そこから生まれる信頼関係が、人生を生きていく上で大切なものだと信じています。

生徒たちと古民家リノベーションの
プロジェクトに取り組む赤穂さん(前列左)

ーー最後に、赤穂さんにとって先生とは、どんな仕事ですか?

今、進路指導主事をしているからこそ思うことなのかもしれませんが、先生の役割は、卒業後の行き先を決めたらそれで終わり、というものではありません。その先も含めて、「人生をどう生きるか」を見据えた上で、経験、視点、人とのつながりなどを届けるのが、先生の仕事だと思っています。それが私にとっての学校の先生という仕事です。

たとえ技術がどんなに進歩しても、その中で生きるのは人です。どんな人も、将来は可能性に満ち溢れている。その中には、不安はあって当たり前。それも受け止めて一人ひとりの可能性に向き合っていきたい、対話を続けてあげたいと思います。一人ひとりの人生に向き合える先生は、やりがいがあり最高の仕事です。

コロナ禍もあり、ここ数年は卒業生と顔を合わせることができませんでした。ようやく対面で人と接することのできる状況になったので、卒業生たちのその後の近況や今後の人生の話を、直に向き合って語り合える日を楽しみにしています。

取材・文:中川 恵乃久 | 写真:ご本人提供