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カンパニー|旅館「扇芳閣」の成り立ち①

はじめに

こんにちは!「扇芳閣」公式Noteへご訪問いただき、誠にありがとうございます。五代目・経営者の谷口優太です。

今回は「扇芳閣」の「成り立ち(パート1)」について綴っています。

「風を待つ”泊り場”」として栄えた「鳥羽(とば)」

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鳥羽城を中心に堀が町中をめぐり、多くの交易船を迎えていた鳥羽の町
(絵図集「極秘諸国城図」より)

豊かな自然環境と雄大な海の恩恵を受けて輝いてきたまち、鳥羽市。かつては、鮑や海藻などの魚介類を神宮や都に納める「御食国(みけつくに)」として、奈良・平安などを中心に近畿一円にその名は知られていました。

戦国時代末には九鬼嘉隆が鳥羽城を築城し、鳥羽港(鳥羽湾)は大阪から江戸、桑名・熱田などから江戸へと向かう交易船が風待ちのために立ち寄る港町として栄えました。

「鳥羽」という地名については、交易船や人が行き交う「泊浦(とまりうら)」、「泊り場(とまりば)」がなまったものと言われています。

①割烹料亭「扇芳亭」として創業(1950年~)

1945年、創業者「谷口俊郎」は終戦を満州国「新京」で迎えました。引き上げ後直後は、三重県熊野市の辺りで「魚の行商」を営み生計を立てていました。

第二次大戦の混乱が落ち着き、経済・雇用が安定し、これからは
「旅行」という娯楽が、一般大衆にも徐々に広まっていくであろう

そう考えた谷口俊郎は、1950年10月に由縁あって三重県鳥羽市に、旅館「扇芳閣」の源流となる、割烹料亭「扇芳亭」を創業しました。

「扇芳亭」の中の「扇」という文字は「戸(と)」と「羽(ば)」という二つの漢字から成り立っており、この地の名前である「鳥羽(とば)」が隠されています。これは、谷口俊郎の「どんな時代でも、鳥羽の街に胸を張って顔向けできる事業を営みたい」という思いが込められています。

②旅館「扇芳閣」への変遷(1960年~)

満州国で警視総監を務めていた谷口俊郎の人的ネットワークもあり、扇芳亭は、伊勢志摩を訪れる政界人や政府関係者で大いに賑わいました。また、当時、日本一の造船所として名高かった「鳥羽造船所」(現:シンフォニアテクノロジー)の関係者の定宿として、全国から上客を迎えていました。

「*樋野山に鳥羽湾を一望できる、鳥羽で一番の宿を創ろう」
扇芳閣 創業者 谷口俊郎(1955年)

神武・岩戸景気などの高度経済成長の後押しを受け、順調に経営を伸ばしていった扇芳亭。1953年には伊勢神宮の式年遷宮が開催され多くの旅行客が伊勢志摩を訪れました。そして、1956年に鳥羽三山の一つである「樋野山」に新たに、客室数9部屋の旅館「扇芳閣」を開業しました。この際に建てられた宿は「富士見荘」と名付けられました。これには、旅館から鳥羽湾の先に富士山が見えることに加え、富士山のように日本で一番の旅館になるという谷口俊郎の思いが込められていました。

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鳥羽展望台から見える富士山と伊勢湾フェリー

昭和37年(1962年)に、創業者の谷口俊郎(享年62歳)が死去したことを受け、創業者の妻である「谷口愛子」が2代目経営者として、経営を担いました。1965年の鳥羽水族館のリニューアルオープンも相まって、伊勢志摩鳥羽が観光地として全国的な注目を浴びはじめました。

*「樋野山(ひのやま)」とは?
鳥羽市の中心に位置する標高333メートルの山。三重県南部は多雨地域で、山に降り注いだ雨水を下町に供給する役割をこの山が担っていたため「樋(とい:雨水を集めて流す管)」という漢字があてられた。また、鳥羽市の島々を一望できる立地であり、昭和の文豪・山本周五郎の小説「扇野」の舞台にもなっている。

③式年遷宮と旅館の大型化①(1970年~)

2代目経営者「谷口愛子」のバトンを受け、昭和45年頃(1970年)から谷口仙二が三代目として経営の中心を担いました。谷口仙二(旧姓:土本仙二)は福井県大野市にある建築屋(土本屋|つちもとや)の次男として生まれました。土本屋が、鳥羽市のダム工事を受託した際、定宿としていたのが旅館「扇芳閣」だった縁から、婿入りする形で旅館経営を引き継ぎました。

1970年代、急速に増加する自家用車の保有世帯に加え、伊勢志摩スカイラインや、伊勢鳥羽有料道路開通の影響で、旅館「扇芳閣」は順調に売上を伸ばしていきました。大手旅行会社のバス旅行や、法人の慰安・社員旅行が全盛期であったこの時代、谷口仙二は、1973年の式年遷宮を見据え、客室数を従来の9部屋から50部屋に増築、また大型宴会場を新設し、これまでの個人客が中心だった小規模旅館から、団体旅行も取り込める中規模旅館へと変化させていきました。

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50部屋に増築された旅館「扇芳閣」(1970年ごろ)

④バブル経済と旅館の大型化②(1980年~)

経済が安定成長を続け、国民の全中流化が進み旅行に出る人々の数化大きく増加する中、谷口仙二は1979年~1982年の3年間で新たに41部屋を増築・改築し、合計客室数を71部屋にしました。この増改築によって、100名を超える大型団体旅行の誘致が可能となり、全国の旅行代理店との連携を強化していきました。この頃には、大小合わせ2000社を超える中小旅行代理店・案内所と取引があったと記録されています(現在の約5倍以上)。

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増築された鳥羽湾が一望できる、展望台屋上

1980年代後半、三代目の谷口仙二から、四代目の谷口徹に経営が引き継がれた後も、旅館の大型化は続きました。バブル経済に陰りが見えてきた平成4年(1992年)にも14部屋を増築し、合計85部屋の大型旅館へと変貌していきました。

1990年以降の歴史については、次回に「成り立ちパート②」で綴っていきたいと思います。

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本記事は、旅館「扇芳閣」が「子育て家族に愛される旅館」へと変化する過程での「試行錯誤」や「学び」を整理し、その過程で奮闘する様子を綴ったものです。

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