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悩みは変化していく


少し前まではこんなことを思っていた。

『人生、悩みは尽きない。いや、尽きさせちゃ・・・・いけない。悩みが尽きたら、それは思考放棄で、死んでいるのと同じ。より深淵まで悩み抜くのが正義。あらゆることは考え続けなければならない』

こうまで強迫的に思っていたのは、悩んでいる間だけ許されている感覚がしていたからだと思う。
悩んでさえいれば、”やるべきことをやっている感覚”がしたのだ。
悩むこと自体が神格化されていた。
希死念慮まで行き着く人が輝いて見えたし(今でもかっこいいとは思う)、悩んでいない人は「人でなし」とさえ思った。


「進化の執着地点は自滅。死そのものだ」

『新世紀ヱヴァンゲリヲン』第13話


この発想は行き過ぎている気もするが、ぶっちゃけ「今までさほど悩んでこなかった人」と「死ぬほど悩んだ経験がある人」の間には人間性の面で違いが現れるというのは、なんとなく感じている人も多いのではなかろうか。

だから、過激なまでに排他的になり、全てを投げ打ってまで悩み抜いてきた日々は良かったと思うし、あの頃ほど悩むことがなくなった今が少し寂しくもある。

しかし最近、悩むことだけが正義でもないような気がしてきた。
それは、打ち込む対象が「悩むこと」から別のものに移り変わってきているからだと思う。



僕はやはり書くことが好きだ。
「書く」と言うと「自分との闘い」をいの一番に想像する人も多いかもしれないが、僕は「自分の考えを正確に書き起こす」だけでなく「それをどう伝えるか」も非常に大切だと考えている。

これは文章だけでなく、対人関係でも同じで、
例えば誰かに相談された時、何をどんな風に伝えるかによって相手の受け取り方は全く変わってくる。
「自分だったらこうする」という意見しか持ち合わせていないと相手のためになれることは少ないだろうし、逆に相手のためを想いすぎてもその過度な優しさが嫌われることだってある。
話を聞いてほしいだけの人もいるし、一方で話を聞いてほしいだけでも、相手のためを想うなら時には言うべきことだってある。

『何を、どんな風に、どれくらい。』
これらに正解はなく、当然と言えば当然だけど、相当に奥が深い。

こういった言葉選びは文章を書く上でも非常に大切に思う。
何をどんな風にどれくらい書けば、相手に面白いと思ってもらえるか。厚かましすぎず相手の幸せを願うことができるか。
冗長になってもいけないし、キラーフレーズがあった方が面白い。けれども売れ専の文章は当然ダメだし、何より自分で許せない。体裁を取り繕った感じの薄っぺらい文章にならないように。となると結局は素直に書くのが一番、、、というように。
主張するつもりも強制するつもりはなく、誰かの人生をいい具合に後押しできる文章とは何か。それを考え続けた結果、僕の場合”詩”に行き着き、最近はそちらに傾倒している。野に咲く花はいい。
だけど時にはこの記事のようにエッセイ調の方がいいと思う時もあり、、、。

つまり何が言いたいかというと、先ほどの話に戻る。
表現方法や他者との繋がりも大切に思えてきたから、自分の内側の悩み(≒哲学)を深めていくことだけが正義とは感じなくなってきたのだ。

今まで意識的にも無意識的にも悩んできた過去は先に述べ通り大きな糧にはなったのだけど、もう割と満足行くまで悩み抜いたから、この先は無理に・・・悩む必要はないのだろう。



悩んでいる間は、意義のあることをしている感覚があって、今でも割と好きだ。
見えない誰かに許されている気がする。
だけど、悩みは変化していくのが自然であるし、時には見えなくなる時だってある。
だから悩むときはとことん悩もうと思うし、悩まない時は無理に悩まなくていいと思うようになった。

心の機微に素直でいられる柔軟性は常に持ち合わせていたい。



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