自己紹介 徳川秀忠になれと言われて・・・
専業主夫の薄衣です。
ここまでいくつか記事を載せてきましたが、ちゃんとした自己紹介をしていませんでした。今回、改めて私についてチョット書かせていただきます。
生年は昭和49年。
今年で誕生日が来たら50歳です。
「信長だったらもう死んどるな~。」
先日、同級生と会った時に出た会話です。
大学院の修士を出たあと市役所に入り、
地方公務員として20年勤務しました。
その後、現在まで専業主夫をしています。
子どもの頃から
一言で言うと器用貧乏でした。
なんでもそこそこ出来ました。
勉強もそこそこ。運動もそこそこ。
毎年、学年が変わっても、何度クラス替えがあっても勉強も運動もクラスで2~4番目。
飛び抜けているわけでもなく、
出来ないわけでもありませんでした。
私は、基本両親の作った道を歩き続け、ずっと興味のないことをやらされている感覚の中で、違和感を抱いていたのですが、うまくごまかしながらやり過ごしてきました。
ですから、一見うまく出来ているように見えても、私のやっていることは薄っぺらで、とても浅いものばかりでした。
両親の顔色に始まり、人の顔色を見ながら場当たり的に行動する癖がついていました。
やり過ごしたり、右から左にさばいたりするのはうまいんです。
でも、あとになにも残らない。
蓄積が出来ませんでした。
そんな違和感を言語化出来るようになったのは、仕事を辞めた45歳過ぎから。それまでずっと自分に軸がないこと、自分を持っていないことに気づいていませんでした。
秀忠になれ!
自営業の両親に育てられました。戦前生まれの父は脱サラしてかなり苦労したらしく、息子には手堅い人生を望みました。ですから、小学校に入った頃には既に「お前は公務員、しかも転勤のない地方公務員になるのがいい」と言われ続けていました。
父の中で、私の進む道はこれ一択でした。一緒に入ったお風呂の中で、何度言われたことか・・・
我が家は、父が次男坊で分家した家です。本家は代々農家をしており、取り立てて由緒ある家柄ではありません。
しかし父はよく自分を、【新たな家を興した】として徳川家康になぞらえ、私にはこう言い聞かせました。「お前は2代目だから秀忠だ。2代目は世に出てはいけない。早いんだ。だからお前の息子が世に出られるよう、お前は秀忠になれ。ジッと我慢して、家康の言うことをよく聞き、家光(3代目)を待て。」
結果、私は父の言うことをちゃんと聞いていたのです。まったく・・・
公務員への道
両親の基本路線が明確だったせいか、私がやろうとすることに色々と口を挟みます。物差しは必ず、「それは公務員になるのに必要かどうか」です。
例えば小学校の時、少年野球をしようとしてもダメ、中学校に入って部活に野球を選んでもダメ、それでも諦めず高校でも、しかも軟式野球に入ろうとしてもダメ。
常々「それはなんのためにやるんだ」と「必要ない」で、私のプレゼンは片付けられました。
それは進路でも。高校受験のとき、地元のある私立高校が新しく特別進学コースを開設しました。自分の性格上ここが合っていると思い、両親にプレゼンしました。答えはもちろんNo。無難に私立のトップを受けておけばいいとのこと。この時も「公務員になるのに、わざわざそんなところ受ける必要はない」と返ってきました。
結局両親の推す高校に入り、今度は大学受験を迎えます。その高校は大学の附属高校でいわゆるエスカレーター、内部推薦がありました。私はその大学には何の興味もなく、国立大学の文学部を志望していました。もちろん両親にも伝えてあり、担任ともその線で話を進めていました。
しかし、高1秋の三者面談で突然母が、「内部推薦で法学部に行かせます」と言い出し、私と担任が固まりました。なんでも父と協議した結果だそうです。私と担任で母を説得にかかりましたが、最後は「誰が金出してると思ってるんだ!」と母が一喝。またも私は敗れました。
文学部では公務員試験の役に立たない(と両親が思っていた)事、私の志望する大学では自宅を離れなければならない事が、両親の主な反対理由でした。
高校生にもなって、私はまだ、両親に言い負かされ続けているのです。
まったく・・・
またまた結局、両親の推す大学の法学部に入りました。両親的には、学部を卒業したらすぐ公務員になって欲しかったのでしょう。
しかし私は、本来勉強してみたかった日本史の大学院受験を志望します。
この時ようやく、あれやこれやとプレゼンした結果、成功しました。受験を認めてもらい、修士課程で2年間日本史を学びました。
器用貧乏が通じない
大学院の入試はなんとか通ったものの、入ってみると【研究】という壁にぶつかります。それまで私は、試験のたびにその場凌ぎの暗記を繰り返していたので、蓄積が何もありませんでした。
それよりも、研究というものをどうしていいのかさっぱり分からなかったのです。私はここで何をしたいのか。これというものはあったのですが、薄くて浅かった。
すぐ壁にぶつかりました。2年間試行錯誤を繰り返しましたが、結局博士後期課程に進むことは出来ませんでした。
当時は、自分が迷走していることすら気がつきませんでした。自分が抱える違和感を、理解していなかったんです。
それまでの人生で、物事や自分自身にちゃんと向き合ってこなかった結果です。それが分かっていませんでした。
そのため、小手先のことばかりを繰り返し、下手な鉄砲を撃ち続けましたが、全然当たりませんでした。
また、そういう現状と折り合いをつけることも出来ず、違和感だけがどんどん溜まっていきました。
結局地方公務員に
大学院の2年間遠回りをしましたが、私は両親の望む地方公務員になりました。
一般職として20年勤務して退職しました。
ここでも自分の軸、原則とでも言いましょうか、要は自分が無かったことが災いし、随分と便利屋のように働きました。
しかし、人間関係も、仕事もその場を凌いでばかり。結局自分の中の違和感以外、何も残せないまま退職したような気がします。
今思うと、私は何をやりたかったのか。
「だったら違うだろ」とか
「ここはもうちょっと我慢しろよ」とか、
あの時の自分に言いたいことがたくさんあるのですが、職場でのことは稿を改めてお伝えしたいと思います。
振り返ると
よくもまぁ両親の言いなりになってきたものだと改めて思います。当時は、その事自体に気づいてすらいません。
「秀忠って、なんやそれ!」とか、「誰が家康じゃ、ボケ!」くらいに突っ込んで一蹴すればいいだけですよね。
まぁ、おかげで表面上たいした失敗もせず、その場を凌ぐテクニックだけは長けていたような・・・
ちゃんと失敗をして、それに向き合う機会を私は自分で手放してきました。ごまかし方やその場のやり過ごし方、逃げ方ばかりが上達していました。
大切なことから小さな事まで、私の判断基準はいつも自分の外にありました。
なので自分で選んだり、決めたりして行動しているはずなのに、いつも「やらされている感」があり、終わったあとの「達成感」はありませんでした。
それでも大学院受験の時、私のプレゼンに両親は折れたのです。きっとそれまでも私が先に折れなければ、もっと自分の気持ちをしっかり伝えていれば、違った結果になっていたのかもしれません。
でも、私は要所で諦めてきました。そしてそれを繰り返していたら、トライ自体をしなくなっていました。
これは自業自得です。
自分の人生を自分の足で歩けなかったのは、私自身の問題に他なりません。
そして、たとえ親や他人の顔色を見て決めたことだとしても、その状況を受け入れていれば、また違った景色が見えてきたのではないか。そんな風にも考えます。
それを受け入れたり、折り合いをつけられないから違和感が募り、ストレスを溜めてきたのだと思います。
自分の軸を持ち、行動する。そのプロセスや結果をひとまず受け入れる。そうして次に進んでいく。
主夫になり、鬱になり、家族とともに毎日を過ごす中で、今はなるべくゆっくりと、今その時に出来ることに集中しています。
それでもよく失敗します。思ったとおりになんかいきません。でもそんなもんです。とりあえず受け入れます。
チョット転んでも、脇にそれても、少し休んで、また戻って。自分で道を探して歩いています。
もうすぐ50です。でも仕方がありません。これが私の人生ですから。
とにかく毎日を生き抜く。ただそれだけですが、私には頑張りも必要。頑張りすぎないように頑張ります。
今回も最後までお読みくださり、ありがとうございました。
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