「野良発達な私の場合」はっぴばーすでー私。


   子供の話は一度置いといて…

そうなのだ、今日は私の46回目の誕生日なのだ。


 昭和52年。西暦だと、1977年。
私は、東京の板橋区成増の病院で産声を上げた。

 学生同士のできちゃった婚だった母はまだ22歳だった。少し先輩の父は25歳だった。 

  母は、まだ結婚していない相手との子を孕んでしまったことに気がついた時、一人で名古屋の実家へ帰って私を産もうとした。 

叔母達親戚には、貴方にはまだ先があるんだから、おろした方が良いと言われた。それでも、母は頑なに産みたいと思ったらしい。

 ところが、父に妊娠を打ち明けると、父がものすごく喜んで、結婚が決まったらしい。

 そうと決まったら、大変で。

 悪阻でゲーゲー言いながら、学校へ行き、バイトをしながら、双方の親の顔合わせやら、結婚式の準備。家探しや引っ越し。相当大変だったと思う。

 結婚式の写真。母は、悪阻が酷かったからか、すこしやつれている。パンパンのお腹にドレスを着て、しんどいはずなのに、周りに笑顔を振りまいている。

 母は、とにかく気遣いの人やから、この頃からそうやったんやなと、アルバムを見ていると思う。

 母の口癖は、「せみちゃん、男って、結婚すると変わるんよ…ホンマに別人になってしまうんよ…」だった。

私は、もう随分若い頃から、この母の呪詛のような言葉の呪いに、しっかりかかってしまっていた。

 しかし、産まれた我が子は可愛かったらしく、若い母が吉祥寺の家で私を独り占めして可愛がってくれたことは、写真を見て分かる。嬉しかった…

でも、少しづつ不穏な人間の表情が近づいてくる。

私という新生児に、「大好きな妻が取られた!」と、苦々しい目付きで睨んでくるのは、あれはなんなんだ?

泣く度に「うるさい!」と怒鳴ったり、ご飯を食べようとしても怒鳴ったり、おもちゃで遊ぼうとしても叩いたり、蹴ったり、私のことを一日中怒っているこの男はなんなんだ?

 怒鳴り声で目覚め、怒鳴り声を聞きながら眠る。そんな人生が始まったのだ。

 それでも、産んでくれてありがとう母。父の虐待から始まり、いじめや家出、搾取の日々、障害や病気。色々あったけど、当初の予定よりも随分長生きしてます。そして今、子どもたちと、大切な人達と、慎ましやかに、幸せです。


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