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【形而上学入門】ファンタジーへの理解は人生のコスパを向上させる!

私がいままで生きてきて、一番理解しがたい世界観を提示されたのは、「実は植物が人間の意志すらも支配している」というものだが、考えにくいのは事実だがあり得ないことではないと思う。というかそれを前提として世界を創造することが不可能かと言われたら可能だろうと思う以上は、あり得るというべきかなと考える。

さらに発想を広げるなら、地上世界というのが大地を起源とした非離散的なデータ集合体だとして、その力動論を考えるときに、力場となる意識(認識とかの主体)が集約するところを、原子でも分子でも鉱物でもDNAでも植物でもガイアでも、どの層で処理しても世界は創造できる気はする。そうした創造によって出来上がった世界が、この地上世界ではないとは断言できないと思う。

このアナログ性(型による世界)は、「万物は数である」というのとは対極にあるだろう。万物は数である、の場合は言い換えると存在(1)か非存在(0)かで世界が表せるというもう一方の極端だからだ。始原に存在と非存在だけが存在した(しなかった)というのは、宇宙創造の最もシンプルな形だろうから、万物は数である、というのは世界観としてもシンプルだと言えるだろう。(無理数を認めると多少想像が楽しくなるが、ピュタゴラス学派はそこは否定し続けた。)

何かが存在として認識されるとき、それは必ずデータであるが、存在を存在させた(認識する)存在は、データであるかどうかはわからない。ゆえにデータで表せる存在よりは、データ以前の存在の方が包括的で根源に近いとすべきだろう。データを存在させた(認識する)存在は、データで表せるかどうかわからない。その茫洋としたものを型と表現していいと思うし、ユングなどはそれを元型と呼称するわけだ。(この疑問を抱いたことがないと元型は全くイメージすらできない不可解な理屈にしか見えないだろう。)

そして、物という存在はデータ(位置、時間、物質構造、構成配列など)で表せると考えられる以上、データでは表現不可能と考えられる精神の方が、存在するなら不可解なのは当然だ。データである物からデータではない精神がどうやって発生するかという構造の方が、逆よりも前提が立てにくいと言える。

精神の一部を模倣、あるいは疑似的にデータ化したのが物質だとした方が前提のシンプルさでは無理がない。実際、中観以降の仏教は端的にそう言ってると思う。ただ精神の元となるものがブラックボックスとなるので、それに耐えられないから理解したくないとなることは多いだろう。ブラックボックスとは言え、心は心をなぜか理解できるのだからそこには共有できる型が仮定されるし、神話も物理学もその型を提供していると見ることはできる。繰り返しになるが、ユングはそれを元型と呼んだ。


さて、ここまで煙に巻く話をして、だからなんだ?という疑問は出ると思うが、個人的見解としては、物としての私よりも、心としての私を大切にする方が、心の存在を認識できる存在の在り方としては根源に近い、という説明になってないかな、というだけの話である。

さらに論を進めてしまうなら、物としての人生ではなく心としての人生を大切にした方がより(重層的で)豊かだろうなということである。身体より精神が上位だと考える人は、だいたいこの手の思考をベースにしているのではないかと思う。

もっといえば、物ありきという世界観ではなく、物で構成される世界以外に、どういう世界があり得るかという発想ができる地点にまで、いったんたどり着いてから、改めて、自分が現に置かれている世界をその視点から俯瞰的に相対化して見ていけることになる。

これにより、一つの世界に閉じ込められているよりは柔軟な発想が得られるし、奥義にまで到達すれば自由に自分の世界を別の世界構造で見ることで、まったくあり得ない問題解決法を得ることも可能になっていく。

奥義とか言われればさすがに与太話に見えるだろうが、ヴィトゲンシュタインなどはこの発想で周囲の目を回していた気もする。人の世界とコウモリの世界は違うし、言語が違えばそれだけでもう世界は違うだろう、ということが理解できない人はたぶん現在でも多いはずだ。。

でも、実際、時制の捉え方が違えば、より簡略化された時制から複雑な時制を操作できる意識が住んでいる世界は理解できないだろうし、ゆえにこそ、その存在の言葉がどれほど複雑なことを表現できるかというのは、その存在の世界がどれだけ豊かかを示すことにもなるわけである。

心の方が、精神の方が、より高度な表現のできる言葉の方が、より豊かな人生を約束するだろうことは疑いないと、個人的には考えているけど、それでもその手の豊かさを求めていない人なら、身体だけの次元で生きるのをよしとするだろうことも十分に理解できる(つもりだ)。

そういう豊かさの存在、その可能性を知らないなら求めること自体ができないわけなので、この文章を読んでも刺激にもならないかもしれない。観念を主として考える立場からすると、唯物論者というのは頑固者で、それ以外の可能性を受け入れることを完全に拒否して、物として閉じこもる傾向が強く、本人(人なの?)にそのつもりがないところまでセットなのだな、と感じることができる。

世界観を集合的な視点で考えた場合に、唯物論を論理実証主義が包括しているし、さらに唯心論はそれをも含んでいて、さらに考え得る限りの世界観を包括するものとして形而上学となるというのが、観念が行きつく先だ。(哲学はこの異なった世界の相を移動する手段である)

なお、直面しているデータ(いわゆる物質的な現実)を無視できないという「ルール(制約)」を採用することで、この世界では個(別性)を創出されているわけだが、その中で個が、データの見方、扱い方の「制約」を外していく(自由度を獲得していく)活動をすることを「人生の有意義性」だと定義できる。

あり得る世界のすべてとともにある(すべての世界で生きる)ことは、生き方としては選択の全てで正解も不正解もぜんぶ経験できる。ここで正解も不正解も意味あるものとできるならば、あらゆることが成長(「制約」解除)の糧になる。「制約」を解除するのだから、個から全なる存在へとなっていくのは当然だ。

あり得る世界に関する想像力の豊かさがあれば、人生に意味を見出して豊かなものとするためには非常に効率がいい。要は全を生きるからこそ、個が受ける「制約」から任意に自由になれるのだから、全の在りようを理解・受容することから始める方針が、理屈として無駄がないだろうということだ。

ならば、フィクションを娯楽として扱うだけでなく、フィクションをさらに進めたファンタジーも実際には現実を生きるときの指針としてとても役に立つことになる。それどころか、ファンタジーに対する理解が高いほど、対時間効率のいい生き方ができる素地があるとさえ言えるだろう。同じ時間の中で様々な平行した世界の視点を持つから重層的な経験が得られ(意味あるものに接する面積が多くなり)、比例して獲得するものも多くなる可能性が高いのである。

「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」ということへの理解は必須となる。より限定的に「役に立つものも役に立たないものも等しく役に立つけど、役に立つことしか求めないことだけは何の役にも立たない」とも表現できる。ここまで書いてきた内容が理解できてないとつながりは見えないだろう。

役に立たないことへの理解こそ、結局は人生では一番役に立つ結果になる。役に立つことしかわからないということは、それ以外のことに直面している時間を全て無駄にしてしまう。こんな役に立たない思考があるだろうか。無駄の有用性を愛すること、荘子の中にも「無用の用」というのがあった。

「人皆知有用之用、而莫知無用之用也」

人生の逆説性を理解できないと最後まで生きても無意味になってしまう。そもそも人生がそのままでは無駄なんだから(生まれてこなければこないで別に求めるものもなかったわけで)、生きるために役に立つことよりは生きてあらゆる無駄(役に立たないこと)に触れることの方が意味があるのだ。


思えばヘーゲルも「構造(実)が機能(理)を生むのではない。機能(理)が構造(実)を要求するのだ」ということしか実は言ってないのであって、これが理解できない人だけが、ヘーゲルを全く理解できないことになるわけだ。この発想が理解できてしまえば、創造力は飛躍的に向上してしまうはずなのだ。ここでの創造力は虚構の発生とは無縁である。(虚構の存在意義すら、この一文が説明する。)

「構造が機能を生むのではない。機能が構造を要求するのだ」というのは万象(≠物)の理論(Theory of Everything)のはずなのだ。これさえ前提とすれば、あらゆる世界が創造できる。つまり形而上学を一文で表したのが「構造が機能を生むのではない。機能が構造を要求するのだ」となるのである。

世界をどう生きるかではなく、世界をどう創造するかという視点を持たない限りは、この議論は全く理解できない。世界をどう生きるかは世界をどう創造するかという観点から指針を得るなら、圧倒的に効率がいい方針を立てられるのだから、Howの前にWhatやWhyに接触するのは本来は推奨されるべきことなのだろう。

この智慧の伝承を歴史の至る所でHow信者がぶった切っている。とはいえ、心がある限りはいつでも復活している。原理的には心、その元型がその智慧そのものを内包しているのだから、「制約」を超えた精神(個より全を実感する心)がそこを参照するのは誰も止められないから当然だろう。

WhatとWhyが世界を進展させるとして、Howは世界を維持する。だが、Howが維持のために変革を約束するWhatとWhyという活動を危険視することはあり、それが成ってしまうと世界はそこで行き止まりとなる。Howは創造しないから歴史はかつてあったことだけしか再現できない。ゆえに歴史は繰り返す、というだけのループに陥る。外圧(系の外からの力)がそれを壊すところまでがお約束である。

地球の進んだ精神が地上を超えて宇宙を理解するのは、それをシステム外力場として捉えて、ループを超える可能性を本能的に求めているのだろう。宇宙の中であれば、地上のことなどは全てを包括しても容量を超えなくなる。宇宙が理解できる素地さえあれば、地上のことなどすべてを(理解としては)些事とできるのだ。


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