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綿帽子 第三十四話

【カミキリムシの憂鬱が続く】

夢を見てから連夜眠れない日々が続いている。

退院後、通っている精神科の主治医に後遺症の有無について尋ねてみたが、納得の行く回答は得られない。

それどころか、新しい薬を追加しようの一点張りで、それを拒否するという堂々巡りが続いている。

仕方がないので、ずっと頼りにしていた元々の主治医に電話をしてみた。
入院する直前まで通っていたので本来此方を頼るべきなのだが、俺は今電車に乗ることができないのだ。

親父の死後、東京に戻った俺は実家と自宅の往復を繰り返していた。
自宅から実家までは電車で約45分位の距離にあったので、実家に帰っている時期でも主治医の元には通うことができたのだ。

しかし、今回の退院後は体力の低下と共に、恐らく後遺症による不安障害の悪化で電車に乗るだけで異常なまでに恐怖を感じるようになっていた。

何度か試みたが、三区間の移動に一駅ずつ降りては次の電車に乗りかえる。
そんなチャレンジを繰り返さないと戻って来ることさえできない。
移動の際に全身に圧力を感じて、足がガクガクと震えだす。
そして、立っていることさえ困難になってくる。
継続して乗るには一駅が限界なのだ。

通院していない今、電話でアドバイスを聞くのは申し訳ないと思ったが、事情を説明したら快く相談に乗ってくれた。
ただ、それも何度も続けば手に余る。
段々と返事も適当になってきたりする。

この先生にはその後も大変お世話になったので、本当に感謝しているのだが、世の中捨てる神あれば拾う神ありとはそうそう上手くはいかない。

事情を説明して回答を待つこと1週間。

じゃあ麻酔したらどうですかと返事が返ってきた。

「だって、交通事故に遭ったとしてもすぐに麻酔かけられるでしょう。
どちらにしろ賭けになるにであれば、その時に意識がない方が僕は良いと思います」

うーん、納得させられるようであってそうでないような。
1週間待って、多分その場で考えたであろう回答が返ってきた。
以前からそうなのだが、この先生の何だか適当なんじゃないかと思えてしまうところが、良い感じに力が抜けて自分が安心できる要素とはなっている。

「〇〇さん敗血症を患って、良く不動産屋と契約なんてできましたね、普通できないですよ」

先生からの満足の行く回答は得られなかったが、この言葉で全てが救われた気がした。

「有難うございます、分かりました。また自分でも考えますが麻酔をかけることにします。また、お電話してもよろしいでしょうか」

「勿論です」

「助かります、それでは失礼させていただきます」

ベンゾ系の抗不安薬のみを処方したのはこの先生なので、薬が止め難い体質を形成してしまった要因を作ったのもこの先生なのだが、それでもこの先生には感謝しかない。

一番親身になって接してくれ、道なき道を進んでいる時にほんの少しでも明かりを灯してくれたのはこの先生なのだ。

一応の回答は出たものの、不安が拭えたわけではない。
麻酔をかけた瞬間に俺は居なくなってしまう可能性だってあるのだから。

ぼんやりと考えながら自転車を漕ぐ。

久々に自転車に乗ってみたので、何だかフラフラとしていたがリハビリのつもりで遠出してみた。
その途中で電話したのだ。

交通事故か〜と口ずさみながら進んで行くと交通事故専用の供養の為のお地蔵様を見かけた。
偶然とはいえ一瞬ドキッとしたが、気にしないようにして自転車を漕ぎ続ける。

やがて前方に2匹の犬を連れた男の人が見えてくる。

何だろう?フラフラと右に行ったり左に寄れたりしている。
危なっかしいなと思いながら、真横を通り過ぎようとしたのだが、見覚えのあるシルエットに自転車を止める。

叔父だった。

「叔父さん」

「うん?誰?」

「いや、叔父さん俺だよ」

「ああ、そうかそうか、分からなかったよ」

「叔父さんどこまで行くの」

「うん?ぐるっと一周回って家に帰るんだ」

「そうか、じゃあ家まで送って行くよ」

「いいよいいよ、大丈夫だから」

「いや、叔父さん何だかフラフラしてるから心配だから送っていくよ。それにちょっと話したいし」

「そうか」

実際叔父に会うのは久々でもあったし、自分の身も心配ではあるが、何だか叔父の姿が極端に小さく見えて仕方がなかったのだ。

自転車を降りて、叔父と並んで歩いた。
道すがら色々な話をしたが記憶には全く残ってはいない。
たわいもない話だったと思う。
途中の公園で叔父が休憩をすると言うので、自転車をその場に止めた。

連れていた犬が走り寄ってきて脛を引っ掻く。
気にもしていなかったのだが、何故だか糞尿の匂いがする。

どこか周りでしたのかなと見渡すがその形跡はない。
不思議に思っていると、叔父が喋りだした。

「その犬な、目を離すと直ぐ他の犬のフンを見つけては遊ぶんだ。さっきも犬のフンに体擦り付けちゃってさ、家帰ったら洗えばいいんだけど」

「え?」

どうりで臭いわけだ。さっきその犬、その足で俺の膝を引っ掻きまくってたけど。

「叔父さんそれ早く言ってよ」

「うん?大丈夫家に帰ったら手を洗剤で洗えばいいから」

いや、そうじゃない。
叔父さんはそれで良いかも知れないが、俺はどうなる?俺はどう考えたってフンを服につけたまま家まで帰ることになる。

それに俺、感染症患った後でどう考えたって危ないだろう。
まあ、言っても仕方がないか、起こってしまったのだから。

「そろそろ帰る」と言うので、叔父と2匹を家まで送り届けた。

従姉妹が出てきて二人一緒だったのかと尋ねられる。

「うん、〇〇が家まで送ってくれたんだ」

「そう、じゃちょっと〇〇上がっていきなよ」

「ああ、じゃちょっとだけ」

普段従姉妹とはほとんど交流らしき交流はない。
だが、唯一親父の生き残っている血縁者ではあるし、普通に話せる程度には仲良くしていた。

居間に通されてソファーに座ると、庭先で叔父が犬の足を洗っているのが見えた。本当に洗剤をつけて洗っていた。

それから俺は少し従姉妹ともたわいもない話をしてから、叔父の家を後にした。

叔父や従姉妹と話をしても特に心が高揚することもなければ、楽しいこともない。
だが、この時叔父を送らなければそういう機会も訪れることはなかった。

この日が、叔父の元気な姿を見た最後の日となった。

正しく、捨てる神あれば拾う神ありとはこういうことなのかもしれない。


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