関野哲也

1977年、静岡県生まれ。文筆家、翻訳家。フランス・リヨン第三大学哲学科博士課程修了。…

関野哲也

1977年、静岡県生まれ。文筆家、翻訳家。フランス・リヨン第三大学哲学科博士課程修了。博士(哲学)。ウィトゲンシュタイン、シモーヌ・ヴェイユ推し。興味が趣くままに読み、訳し、研究し、書いている。著書に『よくよく考え抜いたら、世界はきらめいていた 哲学、挫折博士を救う』がある。

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    「MARGINAL NOTES ー 周辺から考えたこと」に掲載された文章ほか、随筆・エッセイ一覧。

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【書評】近藤康太郎『ワーク・イズ・ライフ 宇宙一チャラい仕事論』(CCCメディアハウス)

◎ 10年早く、本書に出会いたかった 私は、いかに狭い了見のもとに、この10年を生きてきたか。 おもしろい〈仕事〉に就ける人が幸せなのではなく、いかに与えられた〈仕事〉をおもしろくできるか。おもしろい〈仕事〉を、人から与えてもらうか(前者)、自分で創るか(後者)。前者と後者では、発想のベクトルが真逆なのだ。 私はこの10年、不本意ながら(でも、頑張ってはいた)生活のために工場や福祉の仕事に従事してきた。その間、私は前者の考えに傾いていた。 しかし、もし私がおもしろい〈

    • 【書評】近藤康太郎『百冊で耕す 〈自由に、なる〉ための読書術』(CCCメディアハウス)

      こんな人がいたとは(!)著者・近藤康太郎さんに対する私の感慨は、この一語に尽きる。何歳(いくつ)になっても知的好奇心を失わないその姿、私から見て、知的青春を謳歌し愉しみ生きるその姿は、わが人生のお手本にしたいとさえ思わせる。 まず、驚くべきはその読書量。さらには、日本語訳を読んで好きになった作家については、外国語原書を読んでいく果てなきグルーヴの追求。そして、答えを得るためではなく、新たな問いを立てるためにという、読書への向き合い方。 ◎ この世界とは、「生きる地獄」であ

      • 【書評】近藤康太郎『三行で撃つ 〈善く、生きる〉ための文章塾』(CCCメディアハウス)

        ◎〈善く、生きる〉ために、書く 本書は、「書くこと」について、小手先の技術を披露するハウツー本ではない。むしろ逆に、そのような小手先の技術を排して頼らず、〈自分の目で世界を観察し、観察したものを自分の言葉で言語化すること〉を読者に促す書である。 本書がそう促すのは、なぜか。副題にあるように、それはすべて、私たち一人ひとりが〈善く、生きる〉ためである。この〈善く、生きる〉ことと、自分の言葉で言語化することが、本書においてイコール関係で結ばれる。さらに言えば、そのイコール関係

        • 【翻訳】『シモーヌ・ヴェイユとの対話』(4)

          『シモーヌ・ヴェイユとの対話』     ジョゼフ=マリー・ペラン 著             関野哲也 訳 ——————————————— 以下の「シモーヌ・ヴェイユにおける霊的体験の軌跡」は、訳者が作成したものです。参考資料として、冒頭に付します。読み飛ばしていただいても構いません。 第1部 第3章 大いなる天啓 唯一シモーヌ・ヴェイユの言葉(話されたもの、書かれたもの)をとおして、われわれは彼女の神秘的な体験を追うことができる。ところで、神を体験したことについて

        【書評】近藤康太郎『ワーク・イズ・ライフ 宇宙一チャラい仕事論』(CCCメディアハウス)

        • 【書評】近藤康太郎『百冊で耕す 〈自由に、なる〉ための読書術』(CCCメディアハウス)

        • 【書評】近藤康太郎『三行で撃つ 〈善く、生きる〉ための文章塾』(CCCメディアハウス)

        • 【翻訳】『シモーヌ・ヴェイユとの対話』(4)

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          【翻訳】『シモーヌ・ヴェイユとの対話』(3)

          『シモーヌ・ヴェイユとの対話』     ジョゼフ=マリー・ペラン 著             関野哲也 訳 ——————————————— 第1部 第2章 カトリックとの三つの「接触」 ー ポルトガル、アッシジ、ソレム ー ポルトガル シモーヌ・ヴェイユ自身が「霊的自叙伝」と呼んだ手紙(『神を待ちのぞむ』所収、手紙IV)において、彼女が経験したカトリックとの三つの接触について私に伝えている。その「接触は、真に重要」であり、「キリストが降りてきて、私をとらえたのです

          【翻訳】『シモーヌ・ヴェイユとの対話』(3)

          【翻訳】『シモーヌ・ヴェイユとの対話』(2)

          『シモーヌ・ヴェイユとの対話』     ジョゼフ=マリー・ペラン 著             関野哲也 訳 ———————————————————— 第1部 第1章「本の冒頭」 シモーヌ・ヴェイユはいくつかの大変美しい詩を残している。彼女にとって、それは自身のひとつの表現方法であった。以下の詩は特に重要である。私がここに引用する詩に彼女がつけた題[「プロローグ」]がわれわれにその重要性を知らせている。 ——————————————— ニューヨークを離れる際、シモー

          【翻訳】『シモーヌ・ヴェイユとの対話』(2)

          【翻訳】『シモーヌ・ヴェイユとの対話』前書き(1)

          『シモーヌ・ヴェイユとの対話』     ジョゼフ=マリー・ペラン 著             関野哲也 訳 ———————————————————— ———————————————————— まえがき この信頼の込もった、かつ差し迫った呼びかけは、帰国する希望なく離れていくシモーヌ・ヴェイユが私に宛てた別れの手紙の結びである。友情への責任感、彼女と私が知った使命への義務感、それは大切な、様々なものが入り混じった、そして未完成なものだった。 彼女の願いを叶えるために、

          【翻訳】『シモーヌ・ヴェイユとの対話』前書き(1)

          井筒俊彦『意識と本質』を読む(9)

          9-1 「元型」イマージュ的「本質」とは 第9章においては、「元型」イマージュ的「本質」が論じられる。まず、本章冒頭で井筒は次のように述べる。 「「元型」(または「範型」archetype)とは、言うまでもなく、一種の普遍者である。だが、それは普通に「普遍者」の名で理解されるような概念的、あるいは抽象的、普遍者とは違って、人間の実存に深く喰い込んだ、生々しい普遍者である」(pp. 205-206)。 「元型」イマージュ的「本質」の「本質」とは、上記の引用からもわかるよう

          井筒俊彦『意識と本質』を読む(9)

          井筒俊彦『意識と本質』を読む(8)

          8-1 イマージュ(心象)とコトバ 第8章の主題は、イマージュ(心象)と意味喚起機能のコトバの緊密な関係性を述べることにある。 我々一人ひとりは、生まれ育った文化的=言語的枠組機構に多大な影響を受けている。それはほぼ無意識的と言ってよい。 たとえば、眼前の木を見た際の「木の意識」はその人間が生まれ育った文化的=言語的土壌に無意識的に影響を受けて、「木」と言われた時、「木のイマージュ」を喚起する。意味喚起作用のコトバが、それに倣った「想像的」イマージュを引き起こすのである

          井筒俊彦『意識と本質』を読む(8)

          井筒俊彦『意識と本質』を読む(7)

          7-1 本章の叙述の流れ 『意識と本質』第七章では、以下の図の流れにしたがって、禅仏教の「本質」論、分節論(意味づけ論)について、井筒の叙述が展開される。 分節(I)→ 無分節 → 分節(II) 未悟(みご)→ 悟 → 已悟(いご) 分節(I)・未悟(みご)とは、我々の見る通常の世界である。ここにおいては、意識は「〜の意識」として働き、事物の「本質」なるものを掴もうとするのであるが、それら「本質」なるものはすべて「仮構であり虚構であって、真に実在するものではない」(p.

          井筒俊彦『意識と本質』を読む(7)

          井筒俊彦『意識と本質』を読む(6)

          6-1 文化的枠組と言語 本章のポイントは、我々一人ひとりの人間が属する「文化的枠組機構」(p. 129.)に、我々の「存在分節体系」(同頁)と我々の使用する「言語」が深く関わっているということを分析することにある。 「存在分節」とは、目の前の事物を「〜の意識」と見た際に行う「意味づけ」(本質把握)のことであり、その「意味づけ」の体系が「存在分節体系」である。 井筒は以下のように述べる。 「ある一つの文化共同体に生れ育ち、その共同体の言語を学ぶ人は、自然に、それと自覚

          井筒俊彦『意識と本質』を読む(6)

          井筒俊彦『意識と本質』を読む(5)

          5-1 垂直的方向と水平的方向 井筒俊彦『意識と本質』はその書名の通り、我々の「意識」と、その意識が「〜の意識」と見る事物の「本質」の交叉点に何が起きているのかを問うものである。 本章の冒頭では、「垂直的、すなわち縦の深まりの方向」(p. 100.)という表現が出てくる。これは、そのすぐ後に続くように、「意識に表層・深層という二重構造を措定して、それに基づいて考えを進めていくことがそれである」(p. 100.)と。 このように書かれているように、「垂直的」とは、「本質」

          井筒俊彦『意識と本質』を読む(5)

          井筒俊彦『意識と本質』を読む(4)

          4−1 リルケ(フウィーヤ)とマラルメ(マーヒーヤ) 本章で取り上げられるマラルメ的本質把握、すなわちマーヒーヤ(概念的本質把握)に立ち入る前に、我々は第2章で見たリルケ的本質把握、すなわちフウィーヤ(個体的本質把握)をおさらいしておきたい。 一方で、マーヒーヤは普遍的リアリティに対する概念的本質の認識であり、他方で、フウィーヤは個体的リアリティに対する個別的本質の認識であった。 たとえば、フウィーヤ(個体的本質把握)では、概念としての「蝶」を掴むのではなく、それが空を

          井筒俊彦『意識と本質』を読む(4)

          井筒俊彦『意識と本質』を読む(3)

          3-1「本質」とは まず井筒からの引用で始めよう。 「「本質」は「存在」と対立し相関する概念である、ということに注意する必要がある。つまり「本質」は常に「存在」に対して「本質」であり、また逆に「存在」は常に「本質」の「存在」である」(pp. 63-64.)。 冒頭、早速、難解な部分である。井筒自身には目指すものが見えているようだが、多くの読者は第三章冒頭にして、すでに置いてけぼりを食っているのではなかろうか。 まず何よりも、「本質」と「存在」とはそれぞれ何であり、両者

          井筒俊彦『意識と本質』を読む(3)

          井筒俊彦『意識と本質』を読む(2)

          2-1 概念的・抽象的アプローチと固体的・具体的アプローチ 井筒は本居宣長に言及し、「概念」というものに関して、以下のように述べている。 「およそ概念とか概念的・抽象的思惟とかいうものを極度に嫌った本居宣長」、彼にとって「抽象概念はすべてひとかけらの生命もない死物に過ぎなかった。従って、抽象概念のもとになる普遍者、一般者、としての「本質」のごときものもまた」(p. 34.)。井筒はさらに言う、「概念的「本質」の世界は死の世界。みずみずしく生きて躍動する生命はそこにはない」

          井筒俊彦『意識と本質』を読む(2)

          井筒俊彦『意識と本質』を読む(1)

          はじめに これから我々は、井筒俊彦『意識と本質』(岩波文庫)を読んでいく。 まず先に、筆者は井筒俊彦研究の専門家ではないことをお断りしておく。ただ、筆者は井筒俊彦の一ファンに過ぎない。『意識と本質』をいつか読み解いてみたいと思う者である。そして、その読み解きの作業を読者と共に行ってみたいと願う者である。 よって、筆者は井筒俊彦研究の専門家ではないため、本稿は、先行研究を踏まえた緻密な分析を行う「研究書」ではない。また体系立った網羅的な「解説書」でもない。そのような「研究

          井筒俊彦『意識と本質』を読む(1)