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井筒俊彦『意識と本質』を読む(7)

7-1 本章の叙述の流れ

『意識と本質』第七章では、以下の図の流れにしたがって、禅仏教の「本質」論、分節論(意味づけ論)について、井筒の叙述が展開される。

分節(I)→ 無分節 → 分節(II)
未悟(みご)→ 悟 → 已悟(いご)

分節(I)・未悟(みご)とは、我々の見る通常の世界である。ここにおいては、意識は「〜の意識」として働き、事物の「本質」なるものを掴もうとするのであるが、それら「本質」なるものはすべて「仮構であり虚構であって、真に実在するものではない」(p. 151.)とされる。それらは、「人間の倒錯した意識の働きによって」(p. 151.)生まれた産物に過ぎないのである。

無分節・悟とは、分節(I)・未悟における意識の仮構や虚構を捨て去って、再び、存在の無分節態(意味づけ以前)に立ち戻ろうとする。この際、人間の意識は「〜の意識」であろうとすることを止める。

分節(II)・已悟(いご)とは、悟りを終えるという意味である。ここでは、分節(I)・未悟から無分節・悟の過程を経て、もう一度、世界を新たな目で見直そうとする。それは意識の表層次元から深層次元へと向かう過程に他ならない。

井筒は言う。「この過程を通じて意識のどのような深層次元が拓かれ、その結果、どのような存在風景が現出するかを、「本質」論、分節論の立場から考察することが本論での私の目指すところである」(pp. 152-153.)。

以下、無分節・悟から分節(II)・已悟(いご)について、順を追って考察していきたい。


7-2 無分節・悟

無分節・悟とは、分節(I)・未悟における意識の仮構や虚構を捨て去って、再び、存在の無分節態(意味づけ以前)に立ち戻ろうとするのであった。

存在の無分節態、それを井筒は「事物の無「本質」性」(p. 156.)と呼ぶ。井筒の言葉を引用しよう。

「あらゆる事物の無「本質」性、存在の絶対無分節、のこの深層的了解が成立した時、さきに掲げた「分節(I)→ 無分節 → 分節(II)」という三角形構造の頂点をなす無分節が深層意識事態として現成する。それを禅は簡単に「無」という言葉で表現する」(p. 156.)。

「深層的了解」また「深層意識事態」というのは、分節(I)・未悟(みご)の表層意識に対して言われているものである。

表層意識は、目に見えるこの世界のみが唯一のリアリティをもった現実であると見なす。しかし、実は、それは表層意識が仮の本質として分節(意味づけ)した仮構、虚構でしかないのであった。

そのような仮構、虚構を排して、一度、「無」に帰する時、表層意識から深層意識が拓かれる。しかし、この「無」は何もかもを無意味とすることではない。井筒は次のように述べる。

「だが、この「無」は内に限りない創造的エネルギーを秘めた無であって、消極的な意味での無ではない。だからこそ下向の道、「無分節→ 分節(II)」がそれに続くのである」(p. 156.)。

表層意識から「無」の深層意識に至って、意識論、分節論の過程は終わりを迎えるのではない。「無」、つまり無分節の後に、分節(II)・已悟(いご)という境地が待っている。


7-3 分節(II)・已悟(いご)

無分節→ 分節(II)・已悟(いご)へと我々は移るのだが、分節(II)の理解のための鍵は、事物が人間の意識を介さず「自己分節」するということにある。さて、事物の「自己分節」とは具体的にどういった事態なのであろうか。

無「本質」的分節とは、自由分節(p. 174.)である、と井筒は言う。ここでの「自由分節」とは、事物自体の「自己分節」と同義である。

たとえば、空を舞う蝶、分節(I)未悟においては、人間の意識が「蝶の意識」とするのであった。その段階では、人間の意識が「蝶」に「本質」を与えていた。それを意識の意味分節(意味づけ)、存在付与分節と呼ぶ。

ところが、無分節の段階に至って、この蝶が人間の意識を離れて自由となる。蝶は蝶であって、人間の意識が捉えた「蝶の意識」ではもはやなくなるのである。

そして、その後、すぐに無分節→ 分節(II)・已悟(いご)へと移る。この移行過程について、井筒の描写を見てみよう。

「分節(II)の存在次元では、あらゆる分節の一つ一つが、そのどれを取って見ても、必ずそれぞれに無分節者の全体顕現なのであって、部分的、局所的顕現ではない。全体顕現だから、分節であるにもかかわらず、そのまま直ちに無分節なのである」(p. 172.)。

部分的・局所的顕現と全体顕現の違いは何だろうか。

井筒の「本質」論によれば、部分的・局所的顕現とは、「元来、「本質」とは存在の限界付け、すなわち存在の部分的、断片的、あるいは局所的、限定を意味する」(p. 169.)とある。

つまり、人間の意識による「〜の意識」、たとえば、空を舞う蝶を「蝶の意識」として限定してしまうことを、井筒は「部分的、断片的、あるいは局所的」と表現するのである。

これに対して、全体顕現とは、空を舞う蝶が、何者(人間の意識)にも限定されずに、蝶が蝶自体を自己分節するような存在の在り方を指す。こうして、無分節者の蝶の自由なる自己分節という段階に達する。

人間の意識による分節(I)は「蝶の意識」という限定を伴う。そのような本質規定を排することが無分節である。そして、この無分節から再度、分節(II)へと移行するわけである。この移行を井筒は見事に描写している。

「電光のごとく迅速な、無分節と分節(II)との間のこの次元転換。それが不断に繰り返されていく。繰り返しではあるが、そのたびごとに新しい。これが存在というものだ。少なくとも分節(II)の観点に立って見た存在の真相(=深層)はこのようにダイナミックなものである。だが常識的見方、つまり分節(I)の見方は、この過程に「本質」を持ち込んでくるので、この真相が見えない」(p. 171.)。

人間の意識に限定されず、絶えず自由に自己分節していく蝶こそが、蝶の存在そのものなのだと井筒は言う。そして、そのようなダイナミックな見方こそが禅の「本質」論、分節論、しいては存在論なのである。

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