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【私訳】『シモーヌ・ヴェイユとの対話』前書き(1)
『シモーヌ・ヴェイユとの対話』
ジョゼフ=マリー・ペラン 著
関野哲也 訳
訳者より
本稿は、Josephe-Marie Perrin, « Mon dialogue avec Simone Weil » フランス語原文からの邦訳です。
ジョゼフ=マリー・ペラン神父は、シモーヌ・ヴェイユの友人の一人であり、彼女が洗礼を受けるか否かを熟考するに際しての対話相手でした。それゆえに、私たちが生前のヴェイユを知るうえで、ペラン神父は欠くことのできない第一証言者です。
訳出に際して、底本として以下を用いました。
Josephe-Marie Perrin, « Mon dialogue avec Simone Weil », nouvelle cité RENCONTRES, 1989.
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目次(note の原稿番号)
まえがき (1)
第一部 シモーヌ・ヴェイユの霊的体験
第一章 「本の冒頭」 (2)
第二章 カトリックとの三つの接触 (3)
第三章 大いなる天啓 (4)
第四章 証言の価値 — 真実か幻想か —(5)
第二部 私たちの対話
第一章 最初の出会いと「主の祈り」の発見(6)
第二章 1941年11月から1942年までの5ヶ月間の対話(7)
— 洗礼と聖体拝領の意味 (8)
— 教会 (9)
— 旧約聖書 (10)
— レジスタンス運動 (11)
— 世俗について (12)
第三章 最後のやり取りと主要テクスト
— 次第に大きくなっていくキリストの影響と聖餐式の体験(13)
— 神への暗々裡な愛の諸形態 (14)
— 注意について (15)
— 神への愛と不幸 (16)
— その他のテクストと最後のやり取り(17)
— 大事な秘密を打ち明ける (18)
第三章 未完のままの普遍的なメッセージ(19)
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まえがき
どのようにしてかはわかりませんが、私のような不十分な存在のうちに宿った考えに、誰も注意を向けようとしないならば、これらの考えは私とともに埋もれてしまうでしょう。私がそう思っておりますように、これらのうちに真理が宿っているならば、埋もれてしまうのは残念なことです。これらを私が害してしまいます。これらが私のうちに見出されることで、人々の注意が向けられなくなってしまいます。
私のうちにあるこれらの考えに注意を向けてくださるよう、私がお願いできるのはあなただけです。私を満たしてくださったあなたの慈愛が、私から離れ、そして私のうちにある、私よりもはるかにいっそう価値があると私がそう信じたいものに向かうことを望んでおります。
この信頼の込もった、かつ差し迫った言葉は、帰国する希望なく離れていくシモーヌ・ヴェイユが、私に宛てた別れの手紙の結びである。友情への責任、彼女と私が得た使命への奉仕、それは大切な、様々なものが入り混じった、そして未完のものだった。
彼女の願いを叶えるために、ともに成し遂げようと計画していた仕事を見すえて私が保管していた彼女からの手紙と、彼女が私に託した諸文書を出版することに私は同意した。これらのテクストは、『神を待ちのぞむ』と『前キリスト教的直観』のタイトルのもとに出版されている。
『神を待ちのぞむ』の出版によってわき起こった反響ののち、「カイエ・シモーヌ・ヴェイユ」〔シモーヌ・ヴェイユ研究誌〕の創設を当時の編集者たちとともに私は考えていた。そこでは、キリスト者であろうとなかろうと、謹厳実直に、互いに絶対の敬意をもって、相対する立場から様々な主題について論じあうのだ。
私はその創設について、それらの主題とシモーヌ・ヴェイユの思想に関心を示す人々と話し合う機会を得た。私の間違いでなければ、カミュはその当時、結核療養所におり、そのような人々のうちの一人であった。計画は残念ながら果たされなかったが。
それ以来、他でも、公会議における「未信と信仰」の対話が、シモーヌ・ヴェイユ思想研究協会(Association de l'étude de la pensée de Simone Weil)の尽力を忘れることなく、私の想像以上に盛んに行われた。
1951年にギュスターヴ・チボンと私が出版した『回想のシモーヌ・ヴェイユ』(朝日出版社)は、彼女の霊的探求についての最初の試論であった。当時、彼女について人によって書かれ出版されたものにしたがうというよりも、チボンと私の面識を通じて彼女が私たちの前に現れたままに、私たちの記憶にしたがってそれは書かれた。
1943年8月24日、彼女の突然の訃報から40年を経た今日、彼女自身によるものをはじめ、彼女の思想や生涯について多くの書籍が出版されている。特筆すべきものはシモーヌ・ペトルマンによる労作『詳伝 シモーヌ・ヴェイユ』(勁草書房)であり、本書は一次証言としても貴重な資料である。
シモーヌ・ヴェイユのメッセージは明らかであり、それは彼女の霊的体験の真実性に直接的に拠っている。様々な面で、私は稀な証言者のうちの一人であり、時には唯一の人間である。歳月が流れゆくのを傍観したまま、いかにして私はそのことを考えずにおれようか……。したがって、私としては特に彼女の霊的体験について話すように努めたい。
歳月が経つにつれて、彼女の思想が分類されるようになってきた。人はそれを、「永遠」と形容できるものもあるし、いくつかは根拠の乏しい仮定と見なすこともできる。多少とも恣意的な体系化を試みることもできよう。
これらのテクストのなかには、おそらく彼女も読み返していない、多くは彼女自身によるメモ書きが存在するということを私たちは忘れてはなるまい。そして、彼女の名を冠することのできない、根拠のないものもある。
無秩序な仕方で彼女の様々なテクストが出版されることには、いっそう敏感にならざるをえず、したがって、いくつかの場合、類似した部分や注意を払わなければならない部分が発見される可能性もある。
さらに、1942年5月に、ジョー・ブスケと私に宛てた二通の手紙をのぞいて、彼女は自身の霊的体験については誰にも、たとえ大変近しい友人であっても、明かさなかったことを忘れてはなるまい(彼女が自身の思索を丁寧に書きつづったカイエ〔ノート〕にも記されていない)。
絶対的なるものへの渇望による彼女の断定的な性格を忘れてしまうならば、人は彼女をよく理解することはできない。彼女は次のように書いている。「一番の悪は、単なる悪ではなく、悪と善とを混同することである」(『ロンドン論集』)と。あらゆる譲歩へのこの拒否が彼女を魅力的なものにするし、彼女の証言の真実性を保証するが、同時に予想できるように、私たちが彼女とともに主の御言葉を聞こうとする際には多くの困難を引き起こす。たとえば、福音書における、彼は「傷ついた葦を折らず」(マタイ12. 20)……。〔彼女は言う〕特にそれは「考える葦!」と。
その他のいくつかの著作(ジルベール・カンへの手紙、とりわけチボンとの手紙のやり取り)の出版により、1941年6月7日から1942年5月14日までのマルセイユにおける私たちの交流の一年について、その状況と交流の豊穣さをよく理解できる。
さらには後年、私はマルー・ダヴィと再会した。彼女はシモーヌ・ヴェイユと確かにとても似た性格で、当時とても若い教師であった。彼女たちはマルセイユで一緒に、『キリスト者の証誌』(Cahiers du Témoignage chrétien)の組織のひとつの責任者を務めていた。このことが、マルーとの日常的な交流と二人の増していく友情を示している。このことを私が話すことになるとは思いもよらなかったが、本書執筆に際して思い起こしたことである。
[本書では]「マルセイユでの数ヶ月」について話すように努めたい。彼女の出発まで、私は彼女の霊的生涯についての完全なる回想に取りかかろうとは意図していなかった。神のもとへと赴かせる、二度と戻ることのない彼女の出発について話そうと思う。
私はあえて〔マルセイユでの〕11ヶ月だけに話をとどめたい。その間、私はシモーヌ・ヴェイユの友人であることができた。友情というその理想は、彼女が「神への暗々裏な愛の諸形態のひとつ」としてはばからず認めているだけに、非常に気高いものである。
明らかなように、このように話すのは、私たちの見解の一致を意味するものではない。このことを示すには、彼女がチボンに宛てた手紙の一節を引くだけで十分であろう。彼女は言う。「友情は様々な違いをなくすことではなく、まして様々な違いが友情をなくすことでもありません」と。このことは特に、彼女と私の関係にあってはその通りである。
私をとおして彼女が探し求めていたものはカトリックの考えであった。したがって、私としてはできる限り、神の御言葉、つまり信仰の真理とキリスト教思想家の様々な見解とを決して混同しないようにしたいと思う。私は決して哲学的地平にとどまることをしたくはなかったし、彼女と私が取り組んだ主題は、神との邂逅(かいこう)以外になかったからだ。
私たちの対話は霊的探求にのみ注がれたので、それは確実に彼女が〔その点で〕傑出した側面を有することに寄与したであろう(「神の友」という表現で彼女が述べていることに、私は後ほど言及してみたい)。だからこそ、若者たちが「健全な思考と肉体を有する世代」となることを願いつつ、私はこれから彼女の霊的探求について掘り下げて話していきたいと考えている。
私の情報源は何か……? それは私自身の記憶である。そのなかには、忘れがたいもの、鮮明なものがある。正確に話すためには、〔彼女の死後〕42年も経てば記憶は薄れ、不鮮明になることを私はよく心得ている。彼女は、1942年5月14日、主の昇天の祭日にマルセイユを発った。
それゆえ、私はその時期の手紙をつねに頼る。彼女が私に、ジルベール・カーンに、またチボンに宛てた手紙を。私が保管していた手紙(『神を待ちのぞむ』所収)の様々な一節をためらわずに引用していく。なぜなら、「探求する人々のために」という主題で彼女とともに執筆しようと夢見ていた仕事に、(彼女の同意を得て)いつかそれらを所収しようと考えていたからである。
幸いにも、〔フランス〕国立図書館が、私が彼女に宛てた手紙、つまり彼女が保管していた書類のなかから見つかった私の手紙を複製させてほしいと連絡をくれた。たとえ私の手紙がそれほど重要なものを含まずとも、公開してよかったと思っている。
大変有益ないくつもの証言によって、彼女についての詳細を正確に知ることができた。またたとえば、彼女がル・ピュイで教師〔高校の哲学教諭〕をしていた当時、彼女と同じアパートに住んでいた人の娘さんと会うことができた。その娘さんは、左右が緑と赤の靴下を履いて(!)高校へ通う哲学教師・シモーヌ・ヴェイユのびっくりするような思い出を語ってくれた。
また、シモーヌ・ペトルマン著『詳伝 シモーヌ・ヴェイユ』から、私はふんだんに引用している。だから、私はペトルマンに証言できてよかったと思っているし、ペトルマンの素晴らしい著作を賞賛したい。
証言者として繰り返し記しておきたいのは、〔彼女が滞在した〕マルセイユでの11ヶ月と私たちの話題に可能なかぎり厳密にしぼって話すことで私は満足したいということである。
私が証言することに対しての心配の種は、私が本書に「レジスタンス運動」の章を組み入れたことにあるが、その章ではマルー・ダヴィの証言に譲りたいと思う。
万が一、〔私の証言に〕いくつかの誤りがあったとしたら、あらかじめ読者諸氏におゆるしを乞うておきたい。本書がひとつの証言となり、真理の声をともに聴くという彼女と私の対話に読者諸氏が導き入れられることを願う。そして、つねに無限に超え出る真理を讃えつつ、私が語りえることについて最大限の正確さを期すことに重きをおくつもりである。
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本書の構成はいたってシンプルなものである。
第1部では、シモーヌ・ヴェイユの霊的体験について述べる。彼女の証言の(現代的な用語を使うならば)信頼性(fiabilité)と私が呼ぶものについて問いを投げかける。
第2部では、1941年6月から1942年5月(彼女がマルセイユを発った日)まで続いた私たち二人の対話について語る。もちろんそこでは、カサブランカ滞在中の彼女から届いた二通の手紙も含まれる。
第2部は、三つの期間に分けられる。
第一期は、私たちの最初の出会い、サン・マルセルのチボン宅からの出立、「主の祈り」の見出し。
第二期は、1941年11月から1942年3月まで。ここでは、洗礼の問題とこの時期の様々な関心事(教会の門をくぐること、旧約聖書の問題、特にレジスタンス運動)が取り上げられる。
第三期は、1942年4月から5月中旬まで。彼女のフランス出国の日が近づき、私たちの対話の機会は少なくなっていった。しかし、対話が行われたときには、それはさらに長時間にわたって、深いものになっていく。
この第三期に、聖餐式(せいさんしき)において、彼女はキリストに激しくとらえられる。そして、人間世界のただ中におけるキリストの臨在を彼女は嘱望するようになる。彼女にとって一番豊穣な時期であったと私が思えるのは、彼女の「注意」の考えについて記されたテクスト群と『神への愛と不幸』の時期である。
シモーヌ・ヴェイユが強くそう願ったように、本書が探求する人々の一助となることを祈っている。彼女は言う。「というのは、いずれにせよ、このことすべてについては、私が問題なのではないからです。神のみが問題なのです。(『神を待ちのぞむ』手紙4)
まえがき・了