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【翻訳】『シモーヌ・ヴェイユとの対話』前書き(0)

『シモーヌ・ヴェイユとの対話』
ジョゼフ=マリー・ペラン 著
関野哲也 訳

本稿は、Joseph-Marie Perrin, « Mon dialogue avec Simone Weil » のフランス語原著からの邦訳である。

ジョゼフ=マリー・ペラン神父は、シモーヌ・ヴェイユと親しく接していた親友の一人であり、彼女が洗礼を受けるか否かを躊躇、熟考するに際して、相談に乗っていた人物である。したがって、我々が生前のヴェイユを知る上で、ペラン神父は欠くことのできない第一証言者である。

訳出しに際して、底本として以下を用いた。

Joseph-Marie Perrin, « Mon dialogue avec Simone Weil », nouvelle cité RENCONTRES, 1989.

なお、訳出しにあたっては、原著テクストの厳密性を重んじる字義通りの直訳ではなく、日本語で自然に意味の通る意訳を心がけている。

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前書き

「どのようにしてかはわかりませんが、私のような不十分な存在のうちに宿った考えに、誰も注意を傾けようとしないならば、それらの考えは私とともに埋もれてしまうでしょう。私がそう思っていますように、それらの考えのうちに真理が宿っているならば、それは残念なことです。それらの考えを私が害してしまいます。それらの考えが私のうちに見出されることで、それらに人々の注意が傾けられなくなってしまいます。

私のうちにあるこれらの考えに注意を傾けてくださるように私がお願いできるのは、あなただけです。私を満たしてくださったあなたの慈愛が私から離れること、そして私のうちにある、私よりはるかにいっそう価値があると私がそう信じたいものに向かうことを望んでおります」(『神を待ちのぞむ』手紙VI)。

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この信頼の込もった、かつ差し迫った呼びかけは、帰国する希望なく離れてゆくシモーヌ・ヴェイユが私に宛てた別れの手紙の結びである。友情への責任感、彼女と私が知った使命への義務感、それは大切な、様々なものが入り乱れた、そして未完成なものだった。

シモーヌの願いを叶えるために、私たちがともに成し遂げようと計画していた仕事のためにと、私が保管していた彼女からの手紙と彼女が私に託した諸文書を出版することを私は引き受けた。これらのテクストは『神を待ちのぞむ』と『前キリスト教的直観』のタイトルのもとに出版されている。

『神を待ちのぞむ』の出版によってわき起こった反響の後、『カイエ・シモーヌ・ヴェイユ』[シモーヌ・ヴェイユ研究誌]の創設を当時の編集者たちとともに私は考えていた。そこでは、キリスト者であろうとなかろうと、謹厳実直に、互いに絶対の敬意をもって、相対する立場から様々な主題について論じ合うのだ。

その創設について、それらの主題とともに、シモーヌ・ヴェイユの思想に興味を示す人々と私は話をする機会を得た。私の間違いでなければ、カミュ自身、その当時、結核療養所におり、それらの人々のうちの一人であった。計画は残念ながらうまくいかなかったが。

それ以来、他でも、公会議、ならびにシモーヌ・ヴェイユ思想研究協会(Association de l'étude de la pensée de Simone Weil) の働きを忘れることなく、「未信と信仰」の対話が私の想像以上に盛んに行われた。

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1951年にギュスターヴ・チボンとともに私が出版した『私たちの知ったままのシモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil telle que nous l'avons connue)』(邦訳『回想のシモーヌ・ヴェイユ』朝日出版社)は、彼女の霊的探究についての考察の最初の試みであった。チボンと私の知己を通じて、彼女が私たちの前に現れたままに、そして当時、彼女について人により書かれ出版されたものにしたがうというよりも、私たちの記憶にしたがってそれは著された。

1943年8月24日、突然の彼女の訃報から40年を経た今日、シモーヌ自身によるもの、もしくは彼女の思想や生涯について、多くの書籍が出版されている。特筆すべきことは、シモーヌ・ペトルマンによる大変素晴らしい『シモーヌ・ヴェイユの生涯』(邦訳『詳伝シモーヌ・ヴェイユ』勁草書房)であり、本書は一次証言としても貴重な資料である。

シモーヌ・ヴェイユのメッセージは明らかであり、彼女の霊的体験の真実性にそれは直に拠っている。その様々な面で、私はその希な証言者のうちの一人であり、時には唯一の人間である。歳月が流れていくのを傍観しつつ、いかにしてそのことを私が考えずにおれようか… したがって、特に彼女の霊的体験について私は話すように努めたい。

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これらの歳月の経過によって、シモーヌの思想が分類されるようになってきた。人がそれを「永遠」と形容できるものもあるし、いくつかは根拠の乏しい仮定と見なすこともできる。多かれ少なかれ恣意的な体系化を試みることもできよう。

これらのテクストの中には、おそらく彼女も読み返していない、多くは彼女自身による手稿が存在するということを我々は忘れてはなるまい。そして、彼女の名を冠するには信頼の置けない、ある種の信憑性の無さもある。

無秩序なやり方でシモーヌの様々なテクストが出版されることにはいっそう敏感にならざるをえず、したがって、いくつかの場合、ただただ類似した部分や注意を払わなければならない部分が再発見される可能性も事実である。

さらに、1942年5月にジョー・ブースケと私に宛てた二通の手紙を除いて、彼女は自身の霊的体験については誰にも、たとえ大変近しい友人たちであっても、明かさなかったことを忘れてはなるまい(彼女が自身の思索を丁寧に書き綴ったカイエ(ノート)にも記されていない)。

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絶対的なものへ渇望によるシモーヌ・ヴェイユの断定的な性格を忘れてしまうならば、人は彼女をよく理解することができない。彼女は次のように書いている。「一番の悪は、単なる悪ではなく、悪と善とを混同することである」(『ロンドン論集』)と。あらゆる譲歩へのこの拒否が彼女を魅力的なものにするし、彼女の証言の真実性を保証するが、同時に、予想できるように、我々が彼女とともに主の御言葉を聞こうとする際には多くの困難を引き起こす。たとえば、福音書における、彼は「傷ついた葦を折らず」(マタイ12. 20)… [彼女は言う]特にそれは「考える葦」!と。

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その他のいくつかの著作(ジルベール・カンへの手紙、とりわけチボンとの手紙のやり取り)の出版により、1941年6月7日から1942年5月14日までのマルセイユにおける私たちの交流の一年、その状況と豊穣さをよく理解することができる。

さらには、後年、私はマルー・ダビ(結婚してジャン=ピエール・ブラン夫人となる)と再会した。彼女はシモーヌと確かにとても似た性格で、当時、とても若い教師であった。(彼女たちは一緒にマルセイユで『キリスト者のあかし誌』(Cahiers du Témoignage chrétien)の組織のひとつの責任者を務めていた。シモーヌは300部の誌面の発送を請け負い、読者からの手紙の受け取り役を任じていた。このことが、マルーとの日常的な交流と二人の増してゆく友情を示している。)このことを私が話すとは思いもよらなかったが、本書執筆において、思い起こしたことである。

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「マルセイユでの数ヶ月」について話そう。というのは、彼女の出発まで、シモーヌの霊的生活についての完全なる回想に取りかかろうとは私は意図していなかったからだ。神の世界に赴かせる二度と戻ることのない彼女の出発について話そう。

私はあえて[マルセイユでの]11ヶ月間にだけに話しをとどめよう。その間、私はシモーヌ・ヴェイユの友人であることができた。友情、その理想は、彼女が「神への愛の暗々裏な形のひとつ」としてはばからず認めているだけに、非常に気高いものである。

明らかなように、このように話すのは、私たちの見解の一致を意味するものではない。それには、彼女がギュスターブ・チボンに宛てた手紙の一節を引くだけで十分であろう。彼女いわく「友情は様々な違いを無くすことではなく、まして様々な違いが友情を無くすことでもありません」。このことは、特にシモーヌと私との関係にあってはその通りである。

私を通して、シモーヌ・ヴェイユが探し求めていたものはカトリックの考えであった。したがって、私としてはできる限り、神の言葉、つまり信仰の真理と、キリスト教思想家の様々な意見とを決して混同しないようにしたいと思う。私は決して哲学的地平にとどまることをしたくなかったし、シモーヌと私が取り組んだ主題は神との邂逅(かいこう)以外になかった。私が彼女の趣向や詩才を知ったのは、彼女の死後に過ぎない。

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私たちの対話は霊的探求にのみ注がれたので、それは確実に傑出した側面を彼女がもつことに寄与したであろう(「神の友」という表現で彼女が述べていることを我々は後ほど見てみたい)。そうであるからして、シモーヌ・ヴェイユのメッセージの中に永遠なるものを受け取る準備をし、若い世代が「健全な思考と肉体を有する世代」であるように願いつつ、私はこれからその霊的探求について掘り下げて話してゆきたいと考えている。

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私の情報源は何か… それは私自身の記憶である。その中には、忘れがたいもの、鮮明なものがある。整理できない記憶に頼ることは決してしない。正確に話すためには、[彼女の死後]42年も経てば、記憶は薄れ、不明瞭になることを私はよく心得ている。シモーヌは、1942年5月14日、主の昇天の祭日にマルセイユを発った。

だから、その時期の手紙を私は常に頼る。彼女が私に、ジルベール・カンに、またチボンに宛てた手紙に。私が保管していた手紙(『神を待ちのぞむ』所収)の様々な一節をためらわず引用してゆく。なぜなら、「探求する人々のために」という彼女とともに執筆しようと夢見ていた仕事に、(彼女の同意を得て)いつかそれらを所収しようと考えていたからだ。

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幸運にも、[フランス]国立図書館が、私がシモーヌに宛てた手紙、つまり彼女が保管していた書類の中から見つかった私の手紙を複製させてほしいと連絡をくれた。たとえ私の手紙がそれほど重要なものを含まなくとも、公開してよかったと思っている。

大変有用ないくつもの証言によって、私はシモーヌについての詳細を正確に知ることができた。また、たとえば、シモーヌがル・ピュイで教師をしていた当時、彼女と同じアパートに住んでいた方の娘さんと会うことができた。その娘さんは、左右が緑と赤の靴下を履いて(!)高校へ通う哲学教師・シモーヌのびっくりするような思い出を語ってくれた。

また、シモーヌ・ペトルマン著『シモーヌ・ヴェイユの生涯』(邦訳『詳伝シモーヌ・ヴェイユ』勁草書房)から私はふんだんに引用している。だから、私はペトルマンに証言できてよかったと思っているし、彼女の素晴らしい著書を賞賛したい。

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証言者として繰り返し記しておきたいのは、〔シモーヌが滞在した]マルセイユでの11ヶ月間と、彼女と私が話した主題に、可能な限り厳格に限って話すことで私は満足したいと思う。

私が証言することについての心配の種は、私が本書に「レジスタンス(抵抗運動)」の章を組み入れることにあるが、その章では、マルー・ダヴィ(現在はJ.P. ブラン夫人)の証言に譲りたいと思う。

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万が一、[私の証言に]いくつかの誤りがあったとしたら、あらかじめ読書諸氏にお許しを乞うておきたい。本書がひとつの証言となり、読者諸氏が真理の声をともに聞くという、シモーヌと私の対話に導き入れられてくれることを願い、我々が語りえることを常に無限に越え出る真理を讃えつつ、最大限の正確さを期すことに重きを置くつもりである。

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本書の構成はいたってシンプルなものである。第一部では、シモーヌ・ヴェイユの霊的体験について述べる。彼女の言葉の(現代的な用語を使うならば)信頼性(fiabilité)と私が呼ぶものについて問いを提起する。第二部では、1941年6月から1942年5月14日(彼女がマルセイユを発った日)まで続いたシモーヌと私の対話について語る。もちろん、そこでは、カサブランカ滞在中の彼女から届いた二通の手紙が含まれる。

第二部は、三つの期間に分けられる。

第一期は、私たちの最初の出会い、サン・マルセルのチボン家からの出発、「主の祈り」との出会い。

1941年11月から1942年3月までの第二期は、洗礼の問題とこの時期の様々な関心事(教会の門をくぐること、旧約聖書の問題、特にレジスタンス(抵抗運動)の活動)が取り上げられる。

第三期(1942年4月から5月中旬まで)は、シモーヌのフランス出国が近づき、私たちの対話の機会は少なくなっていった。しかし、行われた対話はさらに長く、深いものになってゆく。

この第三期に、聖餐(せいさん)式において、シモーヌはキリストに激しく捉えられる。そして、人間世界のただ中において、キリストの臨在を彼女は嘱望するようになる。彼女自身が一番豊穣な時期であったと私に思えるものは、彼女の「注意力」の考えについて記されたテクスト群と『神への愛と不幸』の時期である。

シモーヌ・ヴェイユが強くそう願ったように、本書が探求する人々の一助となることを祈って。彼女は言う。「と言いますのは、いずれにせよ、これらのことにおきましては、私が問題なのではなく、神のみが問題なのです」(『神を待ちのぞむ』手紙IV)。

前書き・了

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