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井筒俊彦『意識と本質』を読む(6)

6-1 文化的枠組と言語

本章のポイントは、我々一人ひとりの人間が属する「文化的枠組機構」(p. 129.)に、我々の「存在分節体系」(同頁)と我々の使用する「言語」が深く関わっているということを分析することにある。

「存在分節」とは、目の前の事物を「〜の意識」と見た際に行う「意味づけ」(本質把握)のことであり、その「意味づけ」の体系が「存在分節体系」である。

井筒は以下のように述べる。

「ある一つの文化共同体に生れ育ち、その共同体の言語を学ぶ人は、自然に、それと自覚することなしに、その文化の定める「本質」体系を摂取し、それを通じて存在をいかに分節するかを学ぶ」(p. 130.)。

文化と言語は密接に結びついている。否、厳密に言えば、文化と言語はイコール関係にある。ひとつの「文化共同体」=「言語共同体」に生まれ育った人間は、無自覚的に、その文化内=言語内における本質把握(「〜の意識」)の方法を自然に身につけている。

本質把握(「〜の意識」)は、人間が意識的にそれを行っているのではなく、井筒によれば、それは、その人間が属する文化=言語の枠組に大きく影響を受けているのである。


6-2 禅の意識論

文化=言語の枠組が、その内に住まう人間の本質把握(「〜の意識」)へ影響することから、井筒はその枠組を「文化的無意識」(p. 130.)、「言語アラヤ識」(同頁)と呼ぶ。

「アラヤ識」とは、「蔵識」とも訳されるように、すべての存在の種子(ビージャ)がそこに蓄えられ、その種子から全存在が発生(存在分節)することから、種子識とも呼ばれる。

「禅は現実を、「本質」によって固定された事物のロゴスの構造体とは見ない。(中略)たしかに禅も、経験的世界を一度は徹底的にカオス化する。一切の存在者からその「本質」を剥奪することによって、である」(p. 118.)。

たとえば「花がある」の「花」という「意識」は、意識が妄想によって「花である実体として描き出した虚像」(p. 119.)として禅は捉える。

目の前にあるそれを「花としての意識」と捉えることは意識の妄想なのである。したがって、この意識を一旦捨て去り、目の前の事物を「〜の意識」と捉えることなしに、カオス化する。

「こうして禅は、すべての存在者から「本質」を消去し、そうすることによってすべての意識対象を無化し、全存在世界をカオス化してしまう」(p. 119.)と井筒が述べる所以である。

これを井筒は「無「本質」的存在分節」(p. 120.)と呼ぶ。


6-3 禅の「コトバ」論

では、禅は一旦カオス化した世界を、再びどう分節し(意味づけし)、捉え直すのだろうか。

ここで重要な鍵概念が「コトバ」である。井筒の言うカタカナ表記の「コトバ」とは、彼独特の意味合いが込められている。

「コトバ」とは意味分節作用(意味づけ作用)、存在を喚起する力(井筒俊彦『意味の深みへ』(岩波文庫 p. 30. 参照のこと)を指す。

「禅がコトバをどんな不思議な目で見ているか。(中略)コトバによる存在分節の問題を処理する禅の仕方も一風変わっている」(p. 132.)。

では、どのように変わっているのだろうか。禅のコトバ論は「「本質」が介入してこない、無「本質」のままでの存在分節、それが禅の問題にする存在分節である」(p. 136.)と井筒は述べる。

無「本質」のままでの存在分節とは、如何に。

目の前の花を指して、「これは何か?」と禅は問う。「それは花です」と答えれば、存在分節してしまうことになる。

そうではなく、「それは花です」でもなく、しかし、沈黙で答えることも許されない。たとえ沈黙したとしても、目の前に花があるという「経験」(p. 136.)に抵触してしまうからである。

「存在の絶対無分節と経験的分節との同時現成こそ、禅の存在論の中核をなすものなのだ」(p. 136.)と井筒は強調する。

まず「絶対無分節」とは、目の前に「花がある」が、にもかかわらず、それを「花がある」と分節しないことである。ここでの分節は意識の妄想でしかないと禅は捉えるからである。

次に「経験的分節」とは、目の前に「花がある」という経験的事実のことである。

意識の妄想を避けるためのこの「絶対無分節」と、目の前に現にある花の「経験的分節」が同時に成立すること、これを目指すことが禅である。

したがって、禅の「コトバ」論に戻るならば、「絶対無分節者でありながら、しかも同時に、それが時々刻々に自己分節して、経験的世界を構成していく。その全体こそが禅の見る実在の真相だ」(p. 136.)と井筒は述べる。

「自己分節」とは、花を分節して「花がある」と言うのではなく、意識を介入することなしに、花が花自体を分節する(自己分節)。すなわち、「直接無媒介的」(p. 136.)に「花が花として自己分節してある」のである。

井筒の述べる「絶対無分節的存在の、直接無媒介的自己分節」(p. 136.)とはこのことなのである。

以上、本稿を押さえた上で、早速『意識と本質』第6章(pp. 117-139.)をお読みいただきたい。

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