見出し画像

井筒俊彦『意識と本質』を読む(9)

9-1 「元型」イマージュ的「本質」とは

第9章においては、「元型」イマージュ的「本質」が論じられる。まず、本章冒頭で井筒は次のように述べる。

「「元型」(または「範型」archetype)とは、言うまでもなく、一種の普遍者である。だが、それは普通に「普遍者」の名で理解されるような概念的、あるいは抽象的、普遍者とは違って、人間の実存に深く喰い込んだ、生々しい普遍者である」(pp. 205-206)。

「元型」イマージュ的「本質」の「本質」とは、上記の引用からもわかるように、これ自体、一種の「普遍者」である。しかし、一般的、日常的な表層意識において把握される「普遍者」とは異なる。一般的な「普遍者」は目に見える事物の「本質」のように、事物をその事物ならしめているエッセンス、意味、普遍的な概念にあたる。

たとえば、花の「本質」があるからこそ、人はバラを見ても、チューリップを見ても、アサガオを見ても、それらを「花」としてエッセンス(「本質」)を取り出し、同種のものとしてひとつの意味で括り、「花」の概念として頭に思い浮かべることができる(「花」というものをイメージとして抽象化できる)。この「本質」「意味」「概念」のことを一般的な意味において「普遍者」と言う(『意識と本質』第2章のマーヒーヤ的「本質」と同義)。つまり、「〜の意識」として人がその事物の「本質」を意味限定し、概念化しているわけである。

ところが、「元型」イマージュ的「本質」の方の「本質」は、この「本質」=「意味限定」=「概念」(マーヒーヤ的「本質」)の普遍者とは異なる。「元型」イマージュ的「本質」は、「それが深層意識に、「想像的」イマージュとして自己を開示する「本質」であるところに特徴がある」(p. 206.)。つまり、それが深層意識で働くがゆえに、井筒は「元型」イマージュ的本質を「人間の実存に深く喰い込んだ、生々しい普遍者である」と述べるのである。

マーヒーヤ的本質が表層意識によって捉えられた「本質」であるのに対して、「元型」イマージュ的「本質」は深層意識によって捉えられる「本質」である。ここで、表層意識と深層意識が明確に区別されることに注意したい。


9-2 易における深層意識の働き

「元型」イマージュ的「本質」が深層意識において「自己を開示」し、如実に働いている例として、井筒は易を挙げる。

「科学的態度で事物をいかに綿密に分析しても、そこから八卦のような「本質」は出てこない。意識の働き方そのものが始めからまるで違っているのだ。外界の事物を眺めながらも、それを見る意識は深層で働くのである」(p. 210.)。

ここで言われる「科学的態度」とは、我々の日常的な世界の見方である。事物を目で見て観察する際の「本質」把握(マーヒーヤ的「本質」把握)のことである。たとえば、眼前の花は「花の意識」として我々に抽象され、その「限定された意味=「本質」を表象意識で捉えられる。しかし、易の「元型」イマージュ的「本質」の場合、問題になるのはそれが潜在する深層意識である。

易の八卦も、六十四卦も、「要するに「元型」イマージュそのものである。(中略)こうして「易」の全体構造は、天地の間にひろがる存在世界の「元型」的真相を、象徴的形象化して呈示する一つの巨大なイマージュ的記号体系となる」(p. 209.)。

易は占いで有名であるが、たとえば、未来を予見するような占いのレベル(表層意識)で井筒が易を語っているのではないことに留意したい。また、深層意識なるものを作りごとの類として考えてはならない(ここまで、拙文「井筒俊彦『意識と本質』を読む(1)〜」をお読みいただいた読者は了解済みであると思う)。深層意識が作りごとであるどころか、井筒は表層意識こそを作りごとの世界と見なしている。表層意識は妄想、幻想を生み出し、事物や世界を歪めてその実相を見ておらず、それこそが虚相の世界である、と。

さて、易の八卦や六十四卦は、世界を深層意識において見ている。その際に、世界は「象徴的形象化」されるのである。この「象徴的形象化」とは、「元型」が火、水、風などといった自然の形を取り(形象化)、その「元型」の意味の形を通して「象徴的」に表しているのである。

したがって、「「聖人」の深層意識に映し出される存在世界は、必然的に、あるいは自然に、一才事物と事態の「元型」的形象のマンダラとして現成するのだ」(p. 209.)。

マンダラは意味世界を表示している。聖人は深層意識において、この世界、しいては森羅万象を、「元型」イマージュ的「本質」によって捉え直し、日常的な表層意識よりも数段も深い所で見ているのである。それが、易の意味世界としてのマンダラとして呈示される。


9-3 易における「元型」イマージュ的「本質」

井筒は述べる。

「これら八卦も、その一つ一つが、それぞれ独自の方向へ向かって顕現可能性をもったエネルギー体であるというだけでなく、それが現実にどんなイマージュとして顕現するかは決まっていない。簡単に言うと、およそどの方向へ行くかが決まっているだけで、何になって現れてくるかはわからない」(pp. 210-211.)。

この引用で大切な箇所は以下の通りである。易の八卦に代表される「元型」イマージュ的「本質」は、それの顕現する方向はおよそ決まっているのであるが(たとえば、火が「光明性、情熱性」をイマージしたり、水が「透明性、流動性」をイメージしたりと)、しかし、その「元型」イマージュ的「本質」が表層意識において何になって現成してくるかは誰にもわからない、という点である。

「「元型」は一つ、それを取り巻くイマージュは多様」(p. 212.)と井筒は述べる所以である。

ここで我々が再三注意したいのは、多様に現成してくるイマージュは表層意識での把握であり、「元型」は深層意識に潜在しているということである。表層意識が虚相を生み、深層意識が実相を生む。

したがって、修練を積んだ易の「聖人」のみが、この表層意識と深層意識を自由に往来しつつ、深層意識を活用し、世界、しいては森羅万象を「元型」イマージュ的「本質」を通して「易の意味世界」として看取することができるのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?