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【書評】近藤康太郎『三行で撃つ 〈善く、生きる〉ための文章塾』(CCCメディアハウス)

◎〈善く、生きる〉ために、書く

本書は、「書くこと」について、小手先の技術を披露するハウツー本ではない。むしろ逆に、そのような小手先の技術を排して頼らず、〈自分の目で世界を観察し、観察したものを自分の言葉で言語化すること〉を読者に促す書である。

本書がそう促すのは、なぜか。副題にあるように、それはすべて、私たち一人ひとりが〈善く、生きる〉ためである。この〈善く、生きる〉ことと、自分の言葉で言語化することが、本書においてイコール関係で結ばれる。さらに言えば、そのイコール関係が、なぜ、どのように結ばれるのか、を詳しく解説したものこそが本書である。

本書の解説の中から、一点だけ取り上げよう。たとえば、小手先の技術(常套句)に頼らない。小手先の技術(常套句)に頼れば、〈自分の目で世界を観察し、それを言語化すること〉を他人によるできあいの言葉に任せ、本来は自ら言葉を絞り出すはずのことを放棄してしまうからだ。それでは、判断停止、思考停止である。

そうではなく、自らの言葉で自らの思考を立ち上げよ、〈善く、生きる〉ために、と著者は言う。つまり、ここでの〈善く、生きる〉とは、見える世界の解像度を上げ、世界に風穴をあけ、世界を少しでも住みやすくすることである。


◎哲学書の香りがする

〈善く、生きる〉。この副題自体がすでにして哲学書の香りを醸し出しおり、本書中にも哲学書を思わせる言葉が散りばめられている。引用したいところだが、読者自身に発見してもらう愉しみとして取って置くことにしたい。

それでも、一点だけ。要約すれば、〈本に答えは書いていない、本を通して自分がどう考えるべきかが見つかる〉(p. 83.)という趣旨の言葉がある。これは、哲学書を読む際にも言えることだ。哲学書やその解説書には、答えは書かれていない。人は哲学書やその解説書を読み、自分で考えるための術を得るのである。

そして、哲学においてと同様に、「問い」の大切さを著者は強調する(p. 115.)。世界を変えるのは「答え」ではなく、「問い」である、と。「答え」を求めて本を読むこと、それも自らの判断停止、思考停止であろう。そうではなく、常に「問い続ける」こと。

「問い」が次の「問い」を呼ぶ。自身の「問い」から始まり、本を読む。そして、そこに「答え」を得るのではなく、新たな「問い方」を得るのである。その新たな「問い方」こそが、〈善く、生きる〉ことに繋がる。繰り返すが、それこそが、見える世界の解像度を上げ、世界に風穴をあけ、世界を少しでも住みやすくすることなのである。


◎読書という名の修行へのいざない

25発のトピックへの見解は、著者が日頃の読書で培った幅広い知識で裏づけられている。この裏づけだけでも、読み物として面白い、読者を飽きさせない、読者を次のトピックへとますます引き込んでいく。

その裏づけにより、著者がどのように本を読み、それを書くことへとどのように活かしているのかを、本書を通して、読者は学ぶことになる。言い換えれば、読者は著者の背中を見て学ぶのだ。

ところで、書くことについて、このように手の内をすべて開陳しても、著者が平然としていられるのは、なぜか。それは、読者が、著者の手の内をすべて知ったところで、著者の立っている高みには容易に到達できないからであろう。読者が著者と同じ所に立とうとすれば、必然的に読書(さらには、様々な芸術鑑賞)という名のストイックな修行を要するのだ。

その修行を自身に課すか否か。それは本書を読んだ読者次第である。著者に魅せられ、「あの高みまで行きたい」、そう思うか否かにかかっている。ただし、自身に修行を課した読者は、もはや嫌々ではない、自ら進んで、嬉々として修行に向かうのだ。そんな、読みたい、書きたいと思わせてくれる書である。一読、否、味読をお勧めしたい。

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