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ある寒い日に四ツ谷の喫茶チェーンで黒船に乗ってやってきた人に慰められたお話

十一月のある夜、どう見ても季節にそぐわない薄着をした女の子が、四ッ谷の大手喫茶チェーン店でメールを打っていた。とても切迫した様子で、眉間にシワをこれでもかと寄せて。誰かが背中をとんと押しでもしたら、簡単に画面の中へ吸い込まれて消えていきそうだった。

しばらくして、日本よりも遥か寒い国で着る用の分厚いダウンを羽織った外国人の男が店へ入ってきた。彼女の顔をちらっと見た。まるで狙いを定めていた獲物の位置をいま一度確認するかのような俊敏さがあった。彼女のほうもそれに気がついたようだった。

二つの視線が、交錯した。

瞬間、二人の人間のあいだを流れる時がいくぶんいびつに歪んだかと思うと、その何分の一の速度ですぐさま元の秩序に戻っていった。なにごともなかったかのように。ここからはその女の子になったつもりで書いてみる。




大切なメールを打っていた。でも、考えようによっては大切でもなかった。
いや、考えれば考えるほど、大切なんかではなかった。大切なものなんて、わたしには何もない。それくらい自分が何を信じて生きている生き物なのか分からない。

冬本番にさしかかるにはまだ早いけれど、ものすごく寒い日だった。わたしは頼んだいちばん安いホットコーヒーにはひと口も口をつけず、ひたすら必死に指を動かしていた。コーヒーからたちのぼっていた湯気はほとんど勢いを失くしかけて、古い亡霊のように頼りなく小さなテーブル界隈を彷徨っている。

しばらくして、四十代半ばくらいのやたら厚着の外国人の男の人が店に入って来て、目が合った。異様な目だった、異次元とつながっているような。そして、いつかも同じようなものを見たことがあるのを思い出した。あの目を見て話したことが、わたしにはある。
まあいいや。私はメールに真剣だった。伝えなきゃいけないことがあった。伝えたいのかどうかは、わからないのに。

その外国人はカウンターで、外国人にしては控えめ(だとわたしは思う)なサイズのコーヒーを受け取ったあと、空席はほかにもあったのにわたしのすぐ隣の席に座った。はじめからそこに座ると決めていたみたいに。そしてそれはわたしの予想通りでもあった。

隣の席まで無造作にはみだしていたわたしの薄いジャケットとリュックを指し「どけてくれないか」とその人は言った。びくっとした。わたしが盗んだりしない為にね、ととっさに冗談で付け加えたが、目はまるで笑っていなかった。わたしはすみませんと謝って、それをどけた。

「明日雪が降るらしいよ。2℃。」
好きでも嫌いでもない職場の人間に話しかけるような自然さで、その人はつづけた。
「あ。だから今日こんなに寒いんですね。」
私はへんてこな気もちを残したまま、またメールに戻った。その人もおもむろにノートパソコンを取り出し、何かをし始めたようだった。

今でこそワイヤレスイヤホンは珍しくないけれど、その時はそんなものしている人を見かけることはなかった。そのすこし変わった男の人は、それをしていた。宇宙人かもしれない、と思った。そのパソコンも向こうの星と通信しているものかもしれないと思ったけれど、ちらっと見た限りはどこにでもある普通のノートパソコンだった。わたしは、会話はこれで終わらないだろう、と予想した。

しばらく経った。私はメールが全く上手く書けず、気が付くと自分でも驚くような大げさなため息をついていた。咄嗟に、その人がそれを聞いていたかのようにぴくっとした。

また集中した。メールを打ち終わった。そして無意識に、また大きなため息をおそらくついた。そのタイミングを見計らったようにその人がノートパソコンを閉じたのか、たまたま私のメールが終わったのとその人の作業が終わったタイミングが一緒だったのかはわからない。

とにかくその人はそのタイミングで、またさっきの奇妙な自然さで話しかけてきた。内容は覚えておらず、本当に他愛もないことで、そこから先どんな会話の流れかたをしたのかぜんぜん思い出せない。カナダとイギリスのハーフだと言っていたのだけは覚えている。

不思議だった。初めて会った人なのに、まるでよく知っている懐かしい目を覗き込んでいるみたいに、ずっとその人の目を見ながら話した。わたしの体のどこにも、すこしの抵抗心もなかった。胸の裏側で今まであまり感じたことのない安心のさざ波が小さく寄せては返していた。
かといって居心地がとてもよくてリラックスできるというわけでもなければ、居心地悪いわけでももちろんなく、無色透明な時間というのがあるならば今まさに体験しているこの感じだ、と思った。人と話すのは苦手なのに、おかしな感じだった。

ひと通り話し終えて、その人は割と唐突に、じゃあと言って立ち上がった。あ、帰ってしまう。もう物理的には絶対届かない星に。馬鹿げているんだけれど何故かそう、思った。そうしたらもう次の瞬間、わたしは大粒のなみだをぼとぼと落として泣いていた(しんじられない)。

その人が分厚いダウンを着直す仕草に、立ちあがって遠くを見据えたときの急なよそ者の視線に、急にものすごい焦りがこみ上げたのだ。人前で臆面もせず泣き出すなんて、泣き虫だった幼い頃はたまにしていたような気がするけれど、ここ何年間は全くもってなかったことだった。今まであまりに泣きすぎて、もうなみだの在庫は切れたのだと本気で思っていたのだ。それなのに。

その人が帰りそうになったから寂しかったというのとは、違った。これは全くそうなのだった。その人が立ちあがる直前に口にした、何かとてつもなくさりげない質問が、わたしの長年せきとめられていたなみだの防壁を決壊させたのだ。ざんねんながら、聞かれたのが何だったのかは覚えていないけれど。

たぶん、いやきっと、何てことの無い内容だった。ただそれによって、今のありのままの自分自身が一瞬にしてぶわっと血を噴き出すように外へとび出してしまった。隠していたのに世界へ、なによりも無防備に飛び出てきてしまった。勝手だ。なんでこんなふうにさせるんだ。そう思った。ものすごい勢いだったのでそれを止める暇もなかった。

その人は、でも、わたしが急に泣きだしても一切動揺を見せなかった。むしろ同じエネルギーでただそこにいてくれて、大粒のなみだが引っ込んだあともぽろぽろとこぼれ落ちてくる残りの滴をなんどか丁寧に拭いてくれた。ありがとう、とわたしは途切れ途切れに言った。

その人は言った。ぼくはなにもしていないよ。
そのとうりだ。ただわたしの目の前に座り、目を見て他愛のない話をし、そして五時の鐘が鳴って家路につく小学生のようにすく、と立ち上がってかえろうとしただけ。ずっとただ、そこにいただけだ。なにもふつうじゃないことをしていないし、言っていない。

それなのに、その人のせいで、わたしはどんどん変化していった。早送り再生の気象レーダーのように。せわしなく、赤にも青にも黄にも緑にもなり、感情的で、あらゆる方向に放射して、散らばった。すべての風の下で。
ああ、わたしは、自分はずっとこういう人間だったよな、と思った。母親の前でおもうように意思表示ができずいつも恥ずかしく、地団駄を踏んで血がにじむほど唇を固く噛み締めていた子どもの頃のべとっとした生温かい感覚が、体の内側からわたしを飲み込もうとしていた。

その人は、わたしがこうなるのを始めから分かっていたように、大昔からその土地に生えて多くのいのちを見守ってきた大木のように、すごく悠然として、ただそこにいて黙ってわたしを見ていた。

わたしがだいぶ落ち着いてくると、何かあったのか、とひとこと言った。わたしは、I can't see my future、とだけ、こたえた。

そうしたら、その人はすべてを悟ったかのようにシンプルに同じ言葉を、冷静に、丁寧に、淡々と繰り返して言った。いい?あなたは。

あなたは、そのままでいい。
ふつうの人は、感情を押し込めて生きる。
でも、あなたはそうしなくていい。
それがあなただからだ。
あなたのもつ、パワーだからだ。
繊細さも真っ直ぐさも、正直さも、あなただけのパワーだから、そのまま、自分が誰であるかを表現すればいい。
あなたはあなたをやめたらいけない。
あなたがやろうとしていることをやめてはいけない。
そのままでいい。あきらめることはない。
そのまま進みなさい。
あなた自身を見せてくれてありがとう。

そうゆっくり、なんども、繰り返した。

それはまるで、わたし自身の内奥から聞こえてくる声のようでもあった。すでになんども聞いている、自分という変幻自在な有機物の底の暗がりからのぼってくる声を今、聞いているようだった。

わたしは、これまでのじぶんの道のりを思った。それは常に対照的な何かと何かのバランスを取ろうとして失敗し続けるわたしだった。荒れ狂う波の上に渡された、ぐらぐらと揺れ続ける、今にも壊れそうな橋の真ん中で、どうにか涼しい顔をして立っていたかったわたしの、あまりにも無謀な挑戦の歴史だった。

橋は、壊れないほうがいいと思う。
でも、壊れるんだったら壊れてもいいのだよ、そういう瞬間があってもいい。そう、その人はわたしに伝えていた。もちろん彼は言語を話してはいたけれど、その伝え方は、そして届き方は、言葉以上の光のような原始的な熱さに満ちていた。
その瞬間こそが、あなたがあなた自身でいる瞬間なのだから。
そして、あなたは、あなた自身でいなくてはいけない人だということを、わすれないで。

その人は、わたしが泣き止んだり、しばらくしてまた泣きだしたり、少しすると笑ったり、ようやく落ち着いたりするのをひと通り見届け、わたしの心にまたあの奇妙な安心のさざ波が戻ったのを分かったあと、帰って行った。どこへ帰ったのだろうか。でも、もう気にならなかった。

帰り際、私が力をくれてありがとう、と言ったら、いや力をくれたのはあなただ、と言った。"Because you're showing yourself to me."
だからこんどは私がじぶん自身を見せなくてはね、もし今度というものがあればだけど。じゃあ、また。今日はよく寝て下さい。そしてまた、夢のつづきをみてください。

寝る前の子どもにする優しいおまじないのようにも、新聞記事の隅っこの遠慮がちなエッセイを読みあげるような孤独な声にも、聞こえた。世界じゅうに満ち溢れている、あらゆる身近な音のような、それなのにほかのどこにもない神秘さをまとっているような、あらゆる時間から切り離された深い音だった。

日本にきてどれくらい?と、最後の最後にその人の背中に向かって、なぜかわたしは聞いた。それはもう、何百年だよ!と、去りながらその人は、初めて嬉々として言った。黒船に乗って来たのはペリーと僕だよ!
そして短く手を振り、入口のドアをくぐって消えていった。

その人が去って、しばらくぼうっとした。やがて店員が近くまでやってきて、「本日は閉店となります。ご来店、ありがとうございました。」と告げた。わたしは身支度をしながらふと我に返って、あの人は時空を超えてやって来た宇宙人か、それとも仙人か、どちらか、と思った。

この、異様な寒さだ。もし、明日雪が降ったら、あの人は宇宙人。降らなかったら、仙人だ。どっちでもいいや。

明日がくる。そしたら、また明日を生きよう。とりあえず今わたしにできることは、それだけだから。

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