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年を重ねようとしている雨の土曜の朝に


 三十四回目の誕生日まであと一週間。

 同い年くらいの友人の中には「じぶんの誕生日、うっかり忘れてた」なんていう人もたまにいて、そんなことってあるの?と聞くたびに疑ってしまう。もしもじぶんよりも大切な存在ができたりして(わからないけれど、子どもとかだろうか)、その人との毎日に息つく暇もないくらい必死で取り組んでいたりしたら、あるいは日付の感覚もなくなるくらい仕事に忙殺されていたりしたら、そういうことも起こるのかもしれないなあと思う。けれど、仮にわたしにそういう状況がやってきたとしてもじぶんの誕生日を忘れてしまうことはない気がする。

 だって、生まれた日である。生まれたくて生まれてきたわけじゃないとか、生まれることを選んだのはじぶんじゃないとか、そういう意見もある。かたや、生前の記憶を持つ子どもがよく「じぶんの意思で生まれてきた」というようなことを口にするとも聞く。

 わたしはそのどっちでもあるような気もするし、どっちでもないような気もして、じっさいあまりよくわからない。じぶんのことを人間のほうよりもその辺に生えている草とか花とかのほうに親近感をおぼえることも少なくないし、人間にはついていけないなあと思うことも多い。だからじぶんが人間をえらんだんだという自信はそんなになくて、たまたまなったのかもしれないような気もする。もっと動物らしく生きることができたらいいだろうなあともよく思う。

 けれど、やっぱり人間になりたくてここへやってきたのかもしれない、と色んな偶然が踊るように重なった日なんかに思ったりすることもある。ここへ来たかったんだ、この星の時間をめいっぱい体験したかったんだ、そのために考えたり感じたり言葉を操ったりする人間をえらんだんだ、というふうに。でもやっぱり、この星へ生まれるなら草とか花としてでもよかったはずだ。なのにどうしてか人間なのか、その理由はわからない。

 ただ生まれたことだけが事実。生まれてしまったでも、生まれたくてそうしたでも、うっかりでもはっきりと意思を持ってでも、とにかく誕生日という日にあっちからこっちにやってきたのだから記念日なのだ。これから先また生きていくためのヒントがこの日には落ちているような気がするからいつもよりより耳を澄ませて過ごしてみようと思う。この日にまた今年も還ってくることができたんだ、嬉しいな、ありがたいな、という気持ちを一日中感じるのもたのしい。じっさいは毎日うっすらそういうことを感じているんだけれど、誕生日のだけはやっぱりふだんより特別。

 わたしは予定日を二週間も過ぎてこっちの世界へきた。胎内記憶がはっきりあるわけじゃないのでなんとなくぼんやりとだけれど、ここが居心地いいのでそっちにいくのあんまり気が進まないんですが、という感じでいたような気がしなくもない。意思をもってデデンと出てきたような感覚はあんまりない。ある意味生まれるしかなかった。母のお腹に来てしまってからは地球の時間を生きるしかなくて、それは何があっても前にしか進まないというもので、だからずっとここにはいられないことはわかっていたような。

 余談だけれど、最近の子どもは予定日より早く生まれてくることが多いという話を聞いた。お腹のなかでじゅうぶんに育たないで未熟な状態で出てきてしまうから、より周りの大人による細やかな注意や世話がひつようだったりするはずだ。この話を聞いたとき、こういうことがたまたまじゃなく同時多発的に起こるのは人類に愛情が欠けているからなんじゃないかと思った。この世界が歪みすぎてうまくバランスが取れていないせいだろうと。大人が試されているのかもしれないとも思う。

 生まれたらすごかった。この世界がすごかった。なんでもあるのになんにもないし、人間はほんとうにややこしいし、意味のないことや無駄に思えるゲームがあちこちで繰り広げられている。そこに進んで参加しようとする人たちやほんとうは参加したくもないはずのになんとなく参加しちゃっているままの人たちがほんとうに沢山いるし、何もかもが同じままではなくてどんどん変化していくし、いろんなことにびっくりしている。今もずっとそう。

 でも、この世がほんとうはどんなものだとしても、わたしはそれを変えるためにここにきたんじゃないんだということを、最近になって思うようになった。ただ経験しにきたんだ、ほんとうの意味でたのしむために、と腑に落ちるようになった。おととしの夏、デルタ株が猛威をふるっていたころにコロナにかかって一瞬でも死を文字通りじっさいに意識してしまったことはその要因として大きかったような気がする。十日間寝たきりなんて生まれてからの三十年間で初めてのことで、どれだけ寝ても時間が進まない、体も良くならない、悪夢のような時間だった。やっとのことで病み上がりの体で久しぶりに外に出て青い空を見たとき、もう何もしたくない、ただ生きていたい、と思ったことは一生忘れないと思う。

 もう一月も半分を過ぎようとしている。こんな感じをあと二十四回繰り返したらあっというまに二〇二三年も過ぎ去っていくんだろう。そんな時間の中でできることなんて生きること以外にたいしてないんだなと思うと、ただひとつぽつんと残るのは書くことぐらい。文字にするということは、人間特有の一度生まれたものを文字としてもう一度生まれ直させる行動は、この星での時間をより豊かなものにしてくれるすばらしい方法だと思う。それが本になったりして何世紀も生き残る。何百年先の人が手に取って、何もかもが変わる中で変わらないであることの断片をそっと抱きしめることができる。
 
 色んなことがあるけれど、生きている中で起こることをジャッジしたり分類したりせずにどのこともできるだけ等しく大切にしながらちゃんと文字に落としていくことで、前にしか進まない時間の中で命をもっていることの奇跡を今年もぐっと見つめていきたい。









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