外国語を学ぶということ
朝日の記事にソン・シギョンさんという歌手のインタビューが載っていた。私はソンさんをしらなかったのだけれど、四月に博多の韓国料理屋さんに入ったとき、店員の女のひとが「わたしの推しは鼓膜彼氏といわれている人で・・・」と話してくれた。その人がソンさんだった。ソンさんは日本での活動のために、日本語を勉強している。
うなづいた。世界平和とは大げさな、とすこし前の私なら思った。けれど今、韓国語を学びながらソンさんと同じことを考えている。とくに、"世界平和につながる"という部分。
たとえばだけど、こんにちのグローバル社会において言語的に見たとき、私はアジアのいち島国に暮らす、日本語を話すマイノリティになる。少なくとも英語という国際語を学ばなければたどりつけなかった場所、交わることのなかった人びとが、たくさん思い浮かぶ。
いっぽうで英語を母国語とする人たちは、あたらしい言語など学ばずとも、世界じゅうどこへでも身軽にいけるだけでなく、言語的な変容を迫られずにふだんと変わらない身体感覚で生活も仕事もできるだろう。言語の観点において、英語話者でない人に比べ意思疎通で壁がない、くじけることがないという感覚は、いったいどんなものなんだろうと、なんどか想像したことがある。
かれらの身体感覚と、私のそれは、大きくちがう。生まれ育った言語が世界のどこでも通用し、根付くことができるという感覚は、言語的な植民地化ともいえる。ほかの言語の習得という歩み寄りなしに、国をどうどうとまたいだり、闊歩できたりすることは時に、人を尊大にしてしまうこともあるのではないか。
そのような言語に生まれ育っていない身としては、つまり、自分のうまれた国以外の人びとと交わるため母国語以外の言語を学ぶひつようがあるということは第一に、謙虚になることを私に求めるからだ。謙虚な姿勢がなければなにも始まらないとさえいえる。謙虚さは、自分とは異なる思考方式、文化、歴史をもつ相手のことを知ろう、歩み寄ろう、理解しようとするうえで、とても重要な姿勢のひとつだと思う。
相手を知りたいと思うこと、自分の当たり前が当たり前ではないと実感するからこそ、相手を敬うこと。いつのまにか、平和というとてもぼんやりしていた言葉がすこしづつ手繰り寄せられ、自分なりの輪郭を持つようになったこととも、あたらしい言語を学ぶことは無関係ではなかった。そういった意味で、ソンさんのいうように新しい言語を学ぶことは「人間のできることの中で一番崇高な」といえる行為なんだろうと思った。
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