地味飯のその先へ、ちいさな料理革命二〇二二
お昼に京都産のすずき三切れでトマトのアクアパッツァを作った。というとおしゃれな食べものを用意したみたいだけれど、冷蔵庫にあったキャベツ、にんじん、大根、カリフローレをじゃんじゃんのせて野菜ブイヨンと塩麹で煮込んだだけ。アクアパッツァってたしか貝とプチトマトが定番で入っているような気がするけれど今日はないし、さいごにカタカナ名の洋風な葉っぱを彩りとしてちらすような気もするけれどそれもないので、芯までりっぱな無農薬パクチーを刻んでぱっぱとのせる。
できあがったものを鉄のフライパンのままどんと食卓におく。使いかけのもずくと豆腐、コーン缶でさっと味噌汁にし、ごはんをよそう。すずきの身はふわふわで、やわらかくて、口にいれるたびおもわず目を瞑ってしまう。野菜もいい具合にくたくたになって、出汁がしみている。これでいい、これがいい。この気合いのない食事がいい。
料理や食生活の内容を記録したYoutubeチャンネルへの投稿を一ヶ月おやすみしたことで、食事がだいぶ簡素なものになった。それまでも、わたしの食卓はメニュー名がつかないような地味なものばかりだった。ファミリーレストランの定番のような人がよろこぶメニューも、いいところのお店が出すような創意工夫のあるものも作れないし、ほんとうにいつもおなじようなものばかりで、動画作りのためにわざわざいい食事を演出しているつもりはまるでなかった。
けれど、いざ撮らなくていいんだとなると見た目も彩りも食材の豊富さも気にしなくなって、もっともっと食卓が簡素化していった。それはとても気が楽なことだった。
料理のようすや食卓を逐一カメラで映していたこの一年は、やはりウェブ上で沢山の人にたのしんでもらうものだからということで、野菜を買うときに初めてみる珍しい野菜を買ってみたりだとか、一品でどーん、というよりは野菜のいろんな顔をみてほしくていくつかおかずを用意してみたりだとかが当たり前になっていて、気がつかないうちに料理の意識が外側へむかっていたんだなあと思う。
それを無理してやっていたとは思わないし、リアルじゃないというのとも違っていて、振り返ってもちゃんと生活していたリアルな記録だと思う。ドキュメンタリー映画がまったくの現実を切り取ったものではなく「カメラのある現実」であるのとおなじで。
でも撮る必要がなくなったとき、買い物の仕方も変わったし、料理もほんとうに必要と思うぶんしかやらなくなった。動画を知ってくださっている方はなんとなくわかるとおもうけれど、それまでだって相当すぼら、よくいえばかなりシンプルだったのに、その先の世界がまだまだあったんだ、と思ってうれしくなったくらい。
基本的に、わたしはお米と味噌汁、野菜、納豆が食べられたらそれでいい。たまに鮮度のいい美味しい地魚が食べられたらラッキー。それの繰り返しでつづいていく毎日をこころからしあわせだと思う。野菜は変わったのとか珍しいのとかも時には気になるけれど、日々の食卓には大根とかにんじん、ブロッコリー、キャベツ、芋、ネギとかが好きで、あとは季節によってその時に美味しいものが食べたい。
そういうものを、ややこしい工程は一切抜きにして、ただじわっと蒸すかことこと煮て、塩麹や醤油、味噌、酢、練りごまあたりで味つけができたらじゅうぶんいい。あとはほんとうになにもいらない。パートナーの希望もあるから、じぶんの理想だけの食卓になるわけじゃあないけれど、おおむねそんな感じでいたいとじぶんが願っていることが、以前よりもっとよくわかった。
師走に入ってからは輪をかけて、毎日野菜たっぷりの鍋だし、数日前からはパートナーが体調を崩していたのでおじやと味噌汁ばかり作っていたけれど、毎日しあわせなごはんを食べることができたと思っている。鍋の次の日のおじやは食べ飽きることはないくらいいつだっておいしいし、安心の味がする。
寒さでからだが揺らぐこの時期は、からだが温まるものであることも大切だから、鍋、おじや、味噌汁はこれ以上はのぞめないというくらいさいこうの冬メニューだ。煮込みうどんやにゅうめんなんかもいい。
作るのに気合いをいれる必要もない。お米さえ精米してセットしておくことができれば、野菜などの具材さえ切ることができれば、そこからは水なり火なり土(土鍋)なりの偉大な自然の力にバトンタッチして、あとはそこへ時間が流れれば、もうりっぱな料理が目の前にできあがっている。洗い物も増えないし、そのぶん読みたい本や書きたいエッセイを書くこと、来年のことを思いだす時間にあてることができる。
ただ生きるための、だれにみせるためでもない、ケの料理。この一ヶ月で、そのちからづよさと頼もしさを前よりもはっきり感じることができた。料理していたら一日が終わる、しごとをしている暇なんかどこにもない、と半分本気、半分冗談で笑っていたけれど、じぶんがじぶんらしく活動していくためにきちんとからだを支えることができる「ちょうどよい日々の料理」は、時間もかからず、気合いもいらず、気楽につづけられるものがいちばんいい。
SNSをひらけば、一歩街にでかければ、すてきな、魅惑的な料理があふれている。そういうじぶんをふるい立たせる料理、好きなひとたちと純粋にたのしむ料理も、たまにはいいなあと思う。でもひとの毎日を作っているのは、じぶんの手をうごかして作ったなんでもない料理だ。SNSにのせていいねを集めるための、雑誌やテレビで注目されるための、料理をつくるひつようはない。
料理や食べることというのは、ほんらいはビジネスの輪っかの中に組み込まれたらいけないものなんじゃないか、と思うこともある。お金を介在させたらいけないさいごの分野なんじゃないかと。そのくらい、料理をする、食べるということは、他者のいのちをじぶんのなかで循環させて活かして生きていく、わたしたちに与えられたすばらしい自然のしくみなのだと思うから。
たとえお金でやりとりされることがあったとしても、安心や安全、栄養といった料理、食事をとおして得られるものが買える人とそうでない人とで区別されてしまう状況がうまれている世界は、そうではなかった以前の自然のままのありようを、そうとう歪ませてしまったんだなと思う。
飲食店をやっていたり、料理をつくる、食べものをつくることで生きているひとたちが沢山いるのだから、いまさら料理がまったくビジネスの外側へいってしまうほうがいいとはもちろんいえないけれど、もし料理に革命が起きるなら、まずはわたしたちひとりひとりが、じぶんにほんとうにひつような食事を見極めることじゃないかと思う。
それは、思っているよりそんなに多くはないし、なんとなく地味で、でもそれを愛することを、心とからだがよしとすること。生きていくためにひつような、心地よいことだとおもえること。そしてその、ほんとうにひつようなものは皆それぞれ違うんだということもちゃんと腑に落として、そういうものでできている世界を大切にくり返していくことができるかどうかに、かかっているんじゃないかなと思ったりする。
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